対話:基盤:公平#1 〜 対話のための前提はなにか?
ここでは、責任をもつ知性どうしの誠実な対話について考えます。
とくにその知性を、ここでは、ヒト(またはその集団の成員)に限定します。
ごく小さな集団では、仕草と言葉の意味が十分に共有されていれば、対話における誤解は生まれにくいはずです。
しかしほかの集団との対話が必要になると、そのための共通の基盤が必要になりますーーその基盤は、だれもが理解・操作できることが条件ですーーつまり、基盤が公平に整備されていることが求められます。[※1]
まず、意味を確実に共有できるよう、だれもが分かる仕草と言葉を採用する必要があります:[※2]
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手段(公平な対話)
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行為:分かりやすい仕草
- ・
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言語:分かりやすい言葉
また、それらの仕草と言葉による意味の連なりも、だれもが分かるものである必要がありますーー歴史をみると、次の概念が<だれもが分かる>という点から、成功をおさめてきました:[※3][※4][※5][※6][※7][※8]
- ◯
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概念(公平な対話)
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論理(筋道)……論理上の構造で、いつでも/だれもがたどれる筋道
- ・
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現象(事実)……物理上の構造で、いつでも/だれもがみられる事実
この前提は明快・簡潔で、問題なさそうににみえますがーー
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※1
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ここでは、公平性について、とくに定義をあたえませんーーただ対話では、そのすべての場面で、それぞれの公平性を検討することなります。その点では、公平性こそ対話の原理、ともいえるかもしれません。
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※2
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言語が共有されていなければ、相手の言葉と意味の対応を、翻訳する必要が出てきます。言語が共有されていても、言葉と意味の対応にはたいてい違いがあるので(宗教、思想、階層、地域、家族、など、所属する/した社会にも起因する)、まずその違いを見つけ出す必要があります。
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※3
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論理は冷たく/厳しく、感情は温かく/優しい、と言われたりもしますがーー公平性の面からいえば、共有できない者を疎外しがちな感情こそ冷たく/厳しく、論理こそ温かく/優しい、とも言えます。
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※4
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なぜ論理(筋道)と現象(事実)のふたつかといえば、このふたつで、この世界を記述できるからかもしれませんねーーまず論理で、あり得るすべての世界を記述します[ルイス]。そこから、この世界の現象に合致するものを採用します[ドイチェ]ーーこれで、この世界の記述を手に入れることができます。つまり、論理(筋道)=数学、現象(事実)=物理、ということでしょうか。
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※5
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これは「科学的方法」と呼ばれるもので、理解・操作するのに(悟りや修行といった)特別な知識・体験を必要としないものですーーこの方法は、形式や自然に対して採用されているだけでなく(論理のみが重視される形式科学、論理と現象が重視される自然科学)、社会に対しても採用されています(議会における答弁、司法における裁判)。
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※6
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なお「科学的方法」は、ポパーの反証可能性にささえられているといえますがーーただしクワインが指摘したように、観測された現象からは複数の論理の体系(理論)を構築でき、それらも補助仮説でいくらでも拡張していけます(デュエム=クワインのテーゼ)。なので、事実と筋道の対応の検証は、じっさいにはとても困難です(決定不全性ーーなお、似たような言葉にゲーデルの不完全性定理があり、そこから論理の危うさが主張されたりしますが、これは誤りです[フランセーン](たんに、一定の形式体系に決定不能な命題が存在する、というだけで、その命題も、計算の停止性が問われるものにかぎりますーーたしかに”単一の公理系で数学のすべてを記述する”というヒルベルトの夢は破れたわけですが、複数の公理系を使うことで、数学はいまも破綻なく行われていますーーとくに基礎論には、集合と圏論という2つの大きな柱があり、これが現代の数学を支えています))。
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※7
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たとえば、天動説から地動説への変遷も、科学的手法による転換の物語、というものではありませんでしたーーじっさいカントが「コペルニクス的転回」と名づけたコペルニクスの主張は、現実には革命と呼べるものでもなかったので(もちろんカントの意図は、そこを認識の転換の象徴としたものですが)ーーそもそもプトレマイオスが天動説を提唱し地動説を棄却したのは、”慣性の法則”の発見以前、という時代背景があったためです(この時代に妥当とされていた”アリストテレス物理学”からすると、地球が動いているなら大きな反動があるはずなのに、それが観測されない、というのが理由です。これ以外にも年周視差の矛盾などがあり、その判断のどれもが科学的手法そのものでした)ーーいっぽうコペルニクスは太陽を中心にする軌道を提唱しましたが、それも従来の”真円”を組み合わせたものだったので、複雑さはプトレマイオスのモデルと同等かそれ以上でした。なのに、地球が動くことによる観測との矛盾を説明できないという、より面倒な問題をかかえてしまった、というのがその実態です(ただし惑星の配置や軌道を一貫して説明できるという美しさがあったため、仮説として後世に伝えられることになります)ーーその軌道を単純な”楕円”にしたのは、のちのケプラーで、”慣性の法則”への道は、同時期のガリレオの実験から始まっています(とはいえガリレオは、かれ自身の”真円”への信念から、またケプラーが使ったティコの観測データが共有されていなかったこともあり、”楕円”をむしろ批判していたのですが……)ーーそれらの整理は、ニュートンの万有引力の法則を待たねばならず、それでも説明できなかった水星の軌道のゆれ(近日点移動)は、アインシュタインの一般相対性理論によってようやく決着していますーーただ、おそらくこの過程におけるもっとも大きな認識の転換は、天動説でも地動説でもなく、<目的は説明せず、現象のみ説明する>という試みだったはずです(”アリストレテス物理学”から”ニュートン物理学”へ)ーーしかし唯物論のような<世界は神も目的もなく存在する>という考え方はあまりにも受け入れ難く、代わりに理神論などが必要とされ、ニュートンの業績もそれらに取り込まれたりしています(ただしニュートン自身は、異端ながらも熱心なキリスト教徒でした)。いっぽう目的論を排する流れも、スピノザからアインシュタインにいたる自然主義的汎神論がありますが、それでも”神”は捨てられず残っていますーー宗教とのからみからいえば、この変遷は、信仰と科学の対立というより、信仰と科学をどう折衷させるかという試みだった、といえるかもしれません(なお”神”の否定は、イオニア派の影響を受けたデモクリトスの原子論から、現代では、ドーキンスの自然主義的無神論、クワインによる認識論の自然化など、こちらも連綿と続いています)。
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※8
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とはいえ物理学は、<目的の説明>から<現象の説明>に移行することで、大きく発展してきたことは事実です。とくに古典物理学より以降は、<無限のものを有限にする>、という方向が顕著にみえます(無限の自由度の排除)ーー相対性理論は、<無限の速さをもつ作用>という概念をなくしました(光速の不変)。量子力学は、<すべてを無限に測れる>という概念をなくしました(離散化・相補性)。量子力学の多体系は、<部分が無限に独立になれる>という概念をなくしました(量子のエンタングルメント)ーーこれらをデジタル物理学の視点からみると、世界が情報を有限にする(離散化する)ことで、(連続化による)無限の計算を回避している、といえるかもしれませんーーとはいえ、連続から離散への移行は、情報の有限性と引き換えに、計算の複雑性という、頭の痛い問題をかかえることになってしまいましたが(ただ、たとえば粒子の散乱振幅の計算を、ファインマン・ダイアグラム(代数)を使わず、アンプリチューヘドロン(幾何)で単純化できたように、どこかに隘路はあるのかもしれません)ーーデモクリトスの素朴な原子どうしのふるまいではなくなったものの、離散化された要素どうしの相互作用、という点からいえば、モデルの構造はいまも変わっていませんーーこれはかなり、驚くべきことに思えます。
対話:基盤:検討#1 〜 筋道と事実だけで対話は可能か?
とはいえ、筋道と事実だけで、相手を理解し、相手に要求し〜譲歩する交渉ができるわけではありません。
そもそも事象を言葉にする(言語化)ということは、事象の豊かな情報を捨て、画一な記号にすることですーーこれに抵抗を覚える人はいるでしょう。また、事象を言葉にすること(言語化)が困難な人もいます。
さらに筋道を追うことは、ヒトが慣れていない行為なので、それなりの訓練を必要とします。また、その筋道の妥当さを示すには、必要なだけの事実を集めることも必要になりますーーいずれにせよ、その負荷はそうとうなものです。[※1][※2]
この観点から、<公平さ>を再度、考えてみますーーほんらい、言語や論理は、だれでも理解・操作できる、ということが前提でした。しかし:
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言語……言語化が難しい人がいる
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論理……論理を追うのが難しい人がいる
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言語……感情を言語にすることに抵抗を覚える人がいる
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論理……論理より感情が先に出てしまう人がいる(自分の意志で制御するのが難しい)
こういった点を考慮すると、言葉・筋道・事実による対話のみでは、かならずしも公平とはいえない、ということになりそうですーー
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※1
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カーネマンが主張するように、システム1(速い思考/情動・感情)は自動で起動しますが、システム2(遅い思考/直観・論理)を起動させるには、相応の訓練を必要とします。ヒトはシステム1にあるさまざまな感情を、システム2の論理によって評価し、どの感情を採用するかを決定しますーーシステム2をあまり働かせない場合は、システム1の感情が、行動を決定しがちになります。
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※2
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なお、言語と論理は、たがいに独立したネットワークを利用していることが、神経科学から示されています(言葉の課題では、脳のブローカ野/ウェルニッケ野が活性になるのに、推論の課題では、活性にならない、など)ーーいずれにせよ、システム1の感情からシステム2の論理が決定したものを、言葉という、画一で順序づけられた記号として出力することになるので、もとの豊かな情報は失われてしまいます。
対話:基盤:公平#2 〜 対話における優劣に配慮する
とはいえ、言葉・筋道・事実を省いた対話は、現実には成り立ちません(たとえば「言葉にするのが難しい」という主張自体が、言葉にしないと伝わりません)。
いっぽう、特定の集団における高度な(ハイコンテキストな)<察し>が要求されれば、こんどはそれが難しい、という人が出てきます(もちろん言葉を使わない意思疎通(非言語コミュニケーション)は、程度の差こそあれだれもがやっていることなので、不可能ではないはずですが)ーーまた、そのような曖昧なやり取り自体に、抵抗を覚える人もいます:
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察し……察するのが難しい人がいる
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察し……察することに抵抗を覚える人がいる
けっきょく、対話の基盤においても、優劣がある、ということを認めるしかありません。優劣があるなら、<公平さ>をたもつためには、配慮が必要になりますーー双方が、たがいの不利な点を補いつつ、対話を試みる、というカタチになるでしょうか:[※1][※2][※3][※4][※5]
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言語(言葉・筋道・事実)による対話が難しい人……それができるだけの時間を与える/できない場合は相手が補完する
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察し(微妙な言葉・仕草)による対話が難しい人……それができるだけの時間を与える/できない場合は相手が補完する
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※1
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これは、公平性を追求する対話自体に、領域ごとの優劣がある、ということですーー優劣があるなら、その領域における公平性を実現するために、配慮が必要になります。つまり、<言語>に優れる者は、そうでない者に配慮する必要があります。<察し>に優れる者は、そうでない者に配慮する必要がありますーーこれは、<対話における優劣に対する公平性>といえます。
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※2
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ここで<優劣>という言葉を使うことに、抵抗を覚える人もいるかもしれせん。しかしこれはたしかに、優劣の問題ですーーただ、その優劣は、能力の差ではなく、選択と時間の差ですがーーある領域に、どれだけの時間をかけることにしたかという、その差です(時間をかけるほど、その領域に習熟しますーーまたそれだけの時間をかけたのだから、それがムダだったとみなしたくもありません(サンクコスト))。これが、双方の優劣として表れますーーある領域で相手が優れている/自身が劣っている、それを率直に認めることが、対話における最初の障壁を、取り除くことになるはずです。
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※3
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公平性を基盤にした/公平性を追求する議論(科学的手法、リベラリズム、ジェンダー平等、……)が、受け入れられない場面があるのは(エセ科学、陰謀論、……)、この<対話における優劣に対する公平性>が欠けている、ということもあるかもしれませんーーもともと言語・論理・現象をもとにした議論は、公平性からくるものでした(だれでも理解・操作できる)。しかし論理の展開が複雑になり、現象の確認が精密になるほど、理解・操作は困難になります(これにクワインの決定不全性が拍車をかけますーーそこに認知バイアス・確証バイアスが加われば、議論はより困難になっていきます)ーーもちろんその困難を克服するよう、だれもが努力すべきです。しかし同時に、努力の成果を待つ/待てないなら補完する、という配慮も必要になるはずです。
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※4
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このような状況に対して「理屈ではなく感情だ」と言われたりもしますが……これは危ういものを抱えていますーー最初に検討したように、多様な知性の間では、言葉は厳密な意味をもち得ません。ましてや、みることができない(直に観察できない)相手の感情は、自身の感情と比較することができませんーーかぎられた集団におけるかぎられた関係では<察し>もそれなりに有効かもしれませんが、それでも推測が誤っていた、というのはありがちなことです(物語の典型的な要素になっているほど)。ただの会話なら、<察し>が誤っていてもいくらでも続けられますが、それでは問題を引き延ばすことしかできません(ここでは、理解・要求・譲歩を必要とする対話を考えています)。
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※5
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とはいえ知性がもつ固有の感情は、システム1にあるものがすべてですーー相手の感情と自身の感情に、それなりに合う部分があるなら、対話を続けることができるかもしれません。あるいは、相手が自身の感情を言葉にできる場合は、それをもとに対話を続けることができるかもしれませんーーしかし、そのどちらもが難しい場合、一般的な解決の方法はない、といえそうですーーただ、そもそも相手と、どのような感情でも共有できる、と考えること自体が傲慢といえます。共有できないということが、知性の多様さを示すものともいえ、その現実に対し謙虚になるしかないのではないでしょうか。
対話:理解 〜 理解は、精神的な痛みをともなう
対話の基盤が整備できたとして、次に、相手をどうすれば理解できるか、を考えます。
まず知性は、それぞれが独自の偏りをもっています。
とくに責任をもつ知性は、自己意識をもちますーー自己意識は、自身の生存のために、自身の偏りこそ正当とみなそうとするでしょう。その偏りに沿って、すべての筋道を構築し〜どれかの事実を選択しているはずなので。あるいは、筋道や事実からは正当といえなくとも、特定の感情に固執していることもあるはずです。[※1][※2]
そうなら、理解にまず必要なのは、自身と相手を<公平に>みつめることですーーこれは、自身の偏りを洗い出し、相手の偏りをいったん受け入れることを意味します。
するとこの態度は、双方に、大きな苦痛をもたらすはずですーー自身を支えてきた基盤(筋道・事実)を、いったん手放すことになるのでーーつまり対話における理解では、精神的な痛みをともなうのは避けられません。これが分かっている場合にのみ、その厳しい対話を続けられるはずです(分かっていない場合、おそらく対話は破綻します)。[※3]
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※1
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ヒトにこの傾向があることは、認知バイアス(ヒトは効率よく判断するために、より直観に頼るので、論理からズレてしまう)[カーネマン/トベルスキー]、確証バイアス(ヒトは、自身に都合のよい事実だけを集めがちになる)[ウェイソン]として知られています。
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※2
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ヒトの知性には偏りだけでなく、優劣もあるかのような主張があったりしますがーーたんに特殊な方に最適化されているか、平均して汎用になっているか、の違いではないでしょうか(フリーランチはない)ーーもちろんその振れ幅も、多様なはずですが。
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※3
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これは「話し合いで解決しましょう」「話せば分かる」といった言葉が、場合によっては、いかに空疎かを意味しますーー自身の基準で相手を評価し説得するだけなら、対話ではなく圧力でしかないので、解決にはいたりませんーー対話では、理解しようとすることで起きる精神的な痛みに、双方がどれだけ耐えられるかが問われている、といえます(もちろん「話し合い」が、対話の基盤を整えるために、言葉・筋道・事実などを整備にする、といったことなら、それ自体は有用なはずですーーただ困難は、その先にあります)。
対話:交渉(要求〜譲歩) 〜 交渉は、物理的・制度的な痛みをともなう
対話における交渉(要求と譲歩)は、物理的・制度的な痛みをともないます。
ここでも<公平さ>が、基準の根底にありますがーーただ問題は、その基準の選択にあり、ここでひとつめの衝突が起きます。[※1][※2][※3][※4][※5][※6][※7]
交渉の材料になる、物理上・精度上の資源は、双方がそれぞれ価値を定めます。その資源も同種とはかぎらず、異種の資源なら、共通の価値(貨幣など)に換算する必要がありますーーあとはその配分になり、そこでふたつめの衝突が起きます。
これらの困難により、双方の知性はともに誠実であろうとしているのに、交渉がほとんど進まない、という状況になりがちです。
ただし、要求にも譲歩にも、超えてはらない一線がありますーーそれが行為の普遍さで、社会を成り立たせるための、最低限の基準といえます。[※8][※9]
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※1
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じっさいやっかいなのが、公平性の定義のしかたですーーつまり、公平性を実現するために、なにをその基準にするか、ということですーーこの基準は、個人の判断から集団の規範にまでおよびますーーたとえば大きな集団からみていくとーー国家を基準にすれば、ある国家の政策を、ほかの国家は、特定の基準で非難することはできません。しかし個人を基準にすれば、民主的でない専制性は、非難の対象になります。血縁を基準にすれば、血縁ごとに財産をすべて引き継いでいくことは、なんの問題もありません。しかし個人を基準にすれば、その財産は、個人から次の個人が引き継ぐ前に、平等に配分すべき、となりがちです(そしてその配分のしかたにも、機会の平等や、結果の平等があります)。
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※2
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さらに現代は、能力主義も批判の対象になります[サンデル]。じっさい、どれだけ努力しても、その成果がみえづらい、という人たちはいますーーすると、個人をさらに分解する必要がありそうです。ただ、能力は(財産のように)配分できません。そうならたとえば、主体が所与の能力をどれだけ活かしているか、といったことで評価すべきかもしれません(血縁で引き継いだ財産が非難・嘲笑されるように、能力を活かせない者は非難・嘲笑されるーー表面での成果の総量でなく、内面での努力の総量が問われる、という価値基準でしょうか)。
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※3
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個人に配分される資源には、人生の長さもある、という考えがありますーーまず個人の人権は、その属性に左右されず/すべきでもありませんーーしかしたとえば、子供と老人のどちらかを助けるしかない、という状況があったとします(あるいは、若者と老人、でもかまいません)。この場合、老人より、子供/若者を助ける、という傾向があるのではないでしょうかーーそこには、子供を守りたい/若者はより役に立つ、といった心理があるかもしれません。ただその心理を、公平性の観点からみることもできます。人生の長さも公平に配分されるべき、という考えですーーとはいえ、この単純な年齢差による公平性は、破綻します。10歳と90歳なら、10歳を助ける、という判断は、あるいは妥当かもしれません。いっぽう50歳と50歳1か月なら、50歳を助けることなります。しかし助けられた者が、50歳1か月を超えて生きたら、人生の長さの配分は公平でなくなりますーーならば、人生の長さに閾値を設けたらどうか、という考えが出てきます。ある年齢(たとえば80歳)までなら平等にあつかうが、その年齢を超えたら、それより年齢の低い者を優先する、というわけです。これなら、高齢者より若年者を助けるべき、という直観に合致しますーーとはいえこんどは、その閾値は適切か、という問題が出てきますーーそもそもヒトの人生の価値は、その長さで計ることができるのか、どうかーーこういった議論(ファア・イニング)は、とくに生死の判断が必要な状況(トリアージ)に対し、繰り返し出てきますーー全能ならそのような<人生の公平性>を定義できるかもしれませんが……はたしてヒトに、それは可能でしょうか……?
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※4
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行動経済学は、ヒトの行動の基本に、公平性があることを確かめていますーーまずその基盤である経済学では、経済活動を行う個人のモデルに、合理的経済人(ホモ・エコノミクス)を定義しています。この合理的経済人は、個人の利得を最大にしようと行動します。その結果、それぞれの戦略の組みが、一定の状態に収束します(ナッシュ均衡)ーーまたこれとはべつに、だれの利益も、それより改善できない状態があります(パレート最適ーーなおナッシュ均衡は、かならずしもパレート最適とは一致しません)ーーいっぽう行動経済学は、ヒトがどのような経済行動をするかを示した実験を、いくつも行なってきましたーー最後通牒ゲーム[グース]は、提案者が分配額を決め、応答者が拒否すれば、双方の取り分が0になるゲームです。たとえば分配する総額が100のとき、提案者が「自身に90〜相手に10」を提案したとします。合理的経済人なら、取り分が「0」になるよりは「10」を選ぶはずです。しかしゲームの結果、提案の多くは「自身に50〜相手に50」に収束します(50:50以外の割合は、グース以降大量に実施された実験結果もふくめると、文化によりかなりの違いがあります)ーーまた公共財ゲーム[フェール]は、全員が持ち金の一部を公共財として寄付していき、最後に、一定の割合で増えた公共財が、全員に均等に配られるゲームです(これは寄付をしない人(ただ乗り野郎/フリーライダー)が、もっとも得をする構造になっています)。合理的経済人なら、だれも寄付しないはずです。社会全体の最適さ(パレート最適)は、全員が、持ち金のすべてを寄付することです(最後に全員に、最大の取り分が返ってくるので)。しかしゲームの結果は、初期には協力があるものの、フリーライダーの出現により崩壊し、寄付はほぼ0に収束します。ただし全員の寄付を可視化し、罰を与えられるようにすると(自分の持ち金で相手の持ち金を減額できる)、全員の格差が、最小になるよう調整されたものになっていきますーーいずれも<自身が損をしても、相手の得を抑える>行動がみられるわけです(とくに最後通牒ゲームの結果は、たいていの人が”そりゃそうだろうと”思うはずですが)。これは、公平性を損なう者を、罰する行動です(利他的な罰)。利他的な罰は、協力者がいることで、ESS(進化論的に安定な戦略)になることが知られています。じっさい利他的な罰は、合理的経済人がナッシュ均衡に向かうものを、強制的に、パレート最適かつ公平な分配を可能にしていますーーヒトの行動の基本には、<公平性を求める>傾向がありそうです。
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※5
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べつの公共財ゲーム[西條]では、日本人がより利他的な罰を行う傾向がある、ことが示されています。また進化生物学では、こうした行動のうち、他者の利得を下げる側面を”スパイト行動”と呼びますーー”スパイト”=”いじわる”という意味なので、”日本人はいじわる”という記事があったりしますがーーさすがにゲーム理論の用語をそのまま当てはめて評価するのは、短慮に思えます。いずれにせよ利他的な罰はESSのひとつなので、これは社会の安定も意味します(停滞、ともいえますが)。
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※5
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なぜヒトに、<公平性を求める>性質が備わっているのでしょうか? たとえば政治論では、ヒトの自然状態を、ホッブズは闘争、ルソーは協力と定義しましたが、これらはあくまで仮定ですーーいっぽう人類学には、原始の集団(狩猟時代のバンド)では公平性が保たれていた、という説があります[ベーム]。ただしこれは、(ルソーが夢想したような)理性によるものではなく、噂話・嘲笑・無視などにより、能力を誇示する者を牽制することで行われていたようです。共謀による殺人もあったというなら、たしかに我欲を自制し資源を共有する、という行動に収束しそうです(それが現代のSNSなど巨大な匿名の集団になれば、噂話・嘲笑・無視が暴走する、ということもありそうですが)。
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※7
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ヒトの<公平性を求める>性質の由来をみるかぎり、他者から糾弾されるという恐怖が、他者を支配したいという欲望を抑制している、という側面はありそうですーーかりに公平性が、まず恐怖からくるものなら、共感や善意による公平性は後づけ、ということになるのでしょうか……
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※8
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この<行為の普遍>は、カントの定言命法を言い換えたものです(「あなたの意志の格率が、つねに同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」)ーーなおこれは、すくなくとも黄金律とは違います(「自身がされたいことを、他者にもしよう」)。白銀律に近いともいえますが(「自身がされたくないことを、他者にしてはいけない」)、これらはいずれも、個人の選好にもとづいています(感情にもとづく主張)ーー<行為の普遍>は、すべての個人がその行為を行なっても、社会が破綻しない/成立する規則にもとづくことを要求するので、個人の選好は排除されます(論理にもとづく主張)ーーたとえば「人から殺されたい」という人がいたとして(そんな人はそういないでしょうけど)、これを黄金律に当てはめると「人を殺そう」になります。「人から殺されたくない」という人がいたとして(たいていの人はそうかもしれません)、これを白銀律に当てはめると「人を殺してはいけない」になりますーー否定の方が、その消極性からより安全になる、ということはいえますーーただいずれも、個別の感情からくるものです(個別性)ーーだれもがそれを実行しても社会が破綻しない/成立するかどうかを問い、たしかにそうだといえて初めて、それは一般の規則になります(普遍性)ーーその点からいえば、「人を殺してはいけない」は普遍性がありますが、ただその状況は多様になり得ます(正当防衛など)。対してカントは、<人格を手段に使ってはならない>という、より普遍性のある前提を設けています。その前提を加えると、この場合は「人を道具として殺してはいけない」とするのが妥当でしょうか。
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※9
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倫理の有名な思考実験に、トロッコ問題がありますーーこの問題では、カントの義務論にしたがう場合、対向側の人の数が増えるにつれ、一般には回答に揺れが出始めます。この揺れは、不作為→作為という移行で起きるのですが……そもそも、この思考実験の状況で、作為と不作為にどれだけ差があるのでしょうか? というのも、どちらを選択するとしても、その結果は確実に予見できるからです。そして、その結果と自身の選択が、強い因果関係にあるからです(因果関係が弱い状況の不作為(貧困問題など)とは、状況がかなり違います)ーーかりに、どちらの選択も同等、つまりどちらも<作為>に該当すると仮定します(作為と不作為の等価性)。すると、どちらを選んでも、人を道具とした殺人になりますーーそうなら、より少ない数の殺人を選ぶ、という選択になるかもしれません(消極的功利主義[ポパー])ーー結果的に功利主義と同じ選択になりますが、伝統的な義務論/功利主義/消極的功利主義を使った主張より、この過酷な状況の内面をよく表しているようにも思えますーーなおこの場合、どちらを選んでも、人を道具とした殺人を行なった罪により、罰を受けることになります。カントの刑罰論(応報刑論)では死罪に当たるので、自殺によりその責任を果たすことになるかもしれません(つまりこの思考実験の状況に陥ったとたん、道具としての殺人の実行と死罪の宣告が不可避になりますーー「太った男」の場合も、フィジカルな面では奇妙に思えるものの、ロジックの面では、オン/オフという型にハメられた状況に変わりないともいえます)ーーこの点が、常識に反するところでしょうかーーとはいえ、作為と不作為は等価でないという伝統にしたがう場合、対向側の人の数がどれだけ増えても(十人〜千人〜1億人〜全人類)、義務論では不作為を選ぶべき、となります。こちらの選択も、常識とかけ離れてしまうというのは、よく言われることです。それでもカントは、世界を道連れにしてでも道徳を守れ、と言うでしょうけど(ーーなお現実には、線路に横たわる人たちはただの数字ではなく、さまざまな属性をもちますーーレバーを引く人も瞬時に苦渋の選択を迫られるので、いずれにしても「トロッコ問題」のような単純化は、極端な結論を導いてしまいがち、といえるかもしれません)。
対話:相手:植物〜動物 〜 ヒト以外の生物にも、自己意識や契約の概念をもつものがいる
ここでは、ヒトと、ヒト以外の生物との対話を考えます。[※1]
進化論が、ヒトと、ヒト以外の生物との断絶をなくしたことで、より公平に、それぞれの生物のふるまいをみることができるようになりました。
じっさい生物の個体どうしの相互作用にかぎっても、はばひろい手段が用いられていることが分かっていますーー植物は、化学物質を介して、周辺の植物や動物に影響を与えています。動物が言語をもつことは以前から知られていましたが、近年は、その言語に文法に近い構造があることも明らかになっています。[※2]
なら、それらの生物の意識はどうなっているのか、という問題が出てきますーーすべての生物に(それだけではなく機械にも)意識がある、という主張から、意識には一定の断絶がある、という主張までさまざまです。ただすくなくとも、一定のレベルの自己意識をもつ生物は、ヒト以外にも存在します。さらにいくつかの生物には、ある種の契約の概念があることも見出されてきました。[※3][※4]
いずれにせよ、ヒト以外の生物との間で、どのような様式の対話が可能か、どのような倫理上の関係を結ぶべきか、研究と議論は続いています。[※5]
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※1
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もちろん植物・動物というおおざっぱな分類は、系統としては正しくありませんーー分子系統は、生物の多様な枝分かれ(ツリー)と、その絡み合い(ネットワーク)を示してきました(なおウィルスは生物ではないので、この系統には出てきません)ーー現在は、生物の最初の分岐は、バクテリア(細菌)とアーキア(古細菌)に分かれるという、2ドメイン説が有力です。そのアーキアに、ユーカリオート(真核生物)がふくまれます(以前は、これらを3つに分ける3ドメイン説が有力でした)。そのユーカリオートに、ディアフォレティケス(植物をふくむ)と、アモルフェア(菌類と動物をふくむ)がふくまれる、という系統になっています(なお”ミドリムシは植物か動物か”という議論が、過去にありましたがーー進化には分子系統だけでなく、共生関係や平行進化もありますーー生物を機能で分け、それで系統も説明しようとした五界説にムリがあった、ということでしょうねーーなお現在の知見からいえば、ミドリムシは、ユーカリオートにふくまれるエクスカヴァータという、植物でも動物でもない分岐に位置します(ミドリムシの葉緑体は、緑藻(植物)を二次共生で取り込んだもので、もとから持っていたものではありません))。
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※2
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植物が揮発性の有機化合物(VOC)を放出し、周辺の植物に防御反応を起こさせたり〜害虫の天敵を呼んだりすることは、近年ではよく知られていますーーまた最近、動物の言語に、語順に依存した構成規則があることが実証されました(シジュウカラの鳴き声は、語順で伝える内容が変わる[鈴木])。この研究に触発され、生物の大量の音声データを機械学習で解析し、文法の存在を示す試みも始まっています。
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※3
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意識が機械にも生物にも広く分布する可能性がある、ことを論じたのはチャーマーズですがーーもちろんその”意識”は、原意識〜自己意識に至る連続的なもので、すべてに同じ意識がある、という主張ではありません(たとえばサーモスタットのような単純な系にも、現象としての微弱な意識が随伴するかもしれない、ということです)ーーただ、すくなくともこの主張は、生物や機械に対する倫理を考えるときの、最低限の基準を示している、とはいえます(たとえば、生物なら脳オルガノイド、機械なら生成モデルを、意識という面からどうみるべきか)。
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※4
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自己意識と(ある種の)契約の概念をもつ生物で、身近な例としては、カラスの仲間のカササギがいるでしょうか(九州地方の佐賀平野に広く分布し、カチガラスとも呼ばれています)ーーじっさい、哺乳類以外で数すくないミラーテストに合格した種として、有名になりました(ミラーテストは、対象の生物に、自身では見えない位置にマーカーを貼り、鏡をみせる、という実験ですーーマーカーを取ろうとする行動が観察されることで、視覚的に自身を認識している、ということがいえます)ーーまたカラス類一般では、相手が裏切ったらお返しをしない、という行動が観察されていますーーこれは、相手が信頼できる個体かどうかを評価し〜記憶している、ということですーー社会における互恵の行動をうながすので、契約(約束)に近い関係を形づくっていることになります。
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※5
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植物〜動物に対する倫理で、よく議論になるのは、趣味・愛玩のための栽培・飼育でしょうかーーその是非はともかく、栽培・飼育を始めるなら、その生物に対する生殺与奪の責任は、すべて自身で負う、という覚悟が必要になります(子供が始めるなら、家族もその責任の一端を担うことになるはずです)ーー愛情はもちろん大切ですが、逆に、手放さざるを得なくなったときのことも考えておくべきでしょうし(たとえば金魚すくいで連れ帰ったキンギョを育てられなくなっても、川や池に放流することはできませんーー病気を持ち込んだり、フナと交雑したりすることで、生態系を破壊するからです)ーーまた、ヒトとは違う生体なので、ヒトの基準であつかうことは危険です。その生物についての、十分な知識も求められます(たとえば最近、集合住宅ではイヌやネコを飼えないので、アナウサギが人気を集めていますがーーアナウサギは、高い温度に弱いのに汗腺がありません。扇風機などで風を送っても放熱できないので、エアコンの常時運転は必須になりますーーまた野ウサギと違い、穴の中で暮らす種なので、外界はむしろ大きなストレス(恐怖)を与えますーー巣穴の外にムリヤリ引き出すのでなく、まず信頼を得ることが前提になります)。
対話:相手:機械 〜 機械が責任をもつ知性になったとき
ここでは、ヒトと機械の対話を考えます。
まず、ヒトと同等の知性をもつAGIは、おそらく作られません(ここで”同等の知性”とは、ある知性(知覚・情動・感情・知能)を”真部分集合”とする知性、という意味です)ーーこれは、経済合理性から明らかでしょう。[※1]
いっぽう、知性の特定の領域で、ヒトより優れた機械を作ることはできますーーすでにシンボリズムの機械群(プログラムで対話する)が、正確で高速な論理計算を、膨大な領域で実行しています。コネクショニズムの機械群(プロンプトで対話する)も、ヒトの特定の能力を超える成果を、すでにいくつも出しています。
これらの技術を発展させることで、独自の知性をもち・環境に適応していくAGIを作ることは、可能かもしれません。それなりに明確な自己意識をもたせることも、可能かもしれません。[※2]
とはいえそのような機械群も、ヒトとはべつの知性でしかないので、個別の対話の様式が必要になるはずですーーその機械が明確な自己意識をもつなら、責任をもつ知性どうしの誠実な対話が、必要になるはずです。[※3][※4][※5][※6][※7]
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※1
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ヒトと同等の知性(知覚・情動・感情・知能のすべてをふくむ)をもつためには、ヒトと同様の身体をもち(寿命(生死)・重さ・脆さ)、ヒトの集団の中で生きる必要があります(幼児〜青春(〜育児)〜老後、挫折〜葛藤〜成功)。またそれぞれの個体には、それなりの変異をほどこす必要がありますーーそのような知性をもつ存在を、人工的に作る意味はあるでしょうか?(ヒトと同様のふるまいしかできないのに)。けっきょくヒトがヒトを産む方が、より手軽に・安価に済むはずです(ヒトの集団をシミュレートする、という手段もありますが、原理的に、現実の粒度・速度と同じにはできないので、より劣った存在にしかなりませんーーもっとも、ヒトの方が仮想空間上の存在として生存していくなら、話はまたべつですが)。
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※2
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フリストンのFEP(自由エネルギー原理)では、生物は、知覚される現象と世界モデルの差(変分自由エネルギー)を最小にするよう行動する、としています。ルカンの提唱する自己教師アリ学習でも、機械が、現実との差(エネルギーベース)を最小にするという点は同じですが、その世界モデルは(VAEの符号反転を使う確率的な分布ではなく)JEPAによる力学的な軌道になっています(折衷案として、ヒトのシステム1に相当するもものをVAEに、システム2に相当するものをJEPAにすれば、現実的な実装になりそうにも思えますが……確率といいう余分な情報で計算の負荷を高めることは、すくなくともルカンにとっては許し難いことのようですし)ーーいずれにせよ、外界と相互作用する知性で、かつ、システム2がその相互作用をシミュレートするなら、そこに<自身>の行動もふくまれます。それが、自己意識といわれるものになるかもしれません。そしてそのような機械が集団になれば、独自の言語を発展させるかもしれません(いまの生成モデルとは表層の会話しかできませんし、対話というなら、その内部に創発しているはずの小さな世界モデルをアナライザやプロンプトで探ること、といえそうですーーいっぽう機械が自己意識と独自言語をもつなら、そこから、責任をもつ知性どうしの対話が実現するはずです)。
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※2
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機械がヒトの技術・文化を代替する、という主張がありますがーーヒトと同等の知性をもつ機械が作られないなら、それも難しい、ということになりますーーもちろん機械が(進化計算などから)多様な技術・文化の変異を生成し、ヒトの評価をもとにそれらを淘汰させていく、ことは可能なはずです。ただしそれはマーケットインの考え方なので、プロダクトアウトのような飛躍した技術・文化を得ることはできませんーーヒトの技術・文化の飛躍は、個人の特殊な執着と長年の葛藤から生まれがちで、それに感化される一定の集団も必要とします(絵画なら、たとえばセザンヌから始まるキュビスムなど)。けっきょく固有の技術・文化は、混沌と秩序の間から生まれるものでしかなく、ヒトの技術・文化は、ヒトが自身で発展させるしかなさそうです。
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※3
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機械も、独自の知性により、独自の技術・文化を発展させるはずです。しかしその技術・文化は、ヒトにとって便利で共感するものにはなりえませんーーとはいえヒトが機械に、自身の技術・文化を伝達し、特有の応答を得ることは可能ですーーそのような対話は、すでに現在の生成モデル群(音楽、言語、音声、画像、映像)との間で行われています。
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※4
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現在の生成モデルによる出力は、学習データ群の最頻値がもっとも安定するので、いわゆるコモディティ化されたものになりがちです(最頻値から外していくこともできますが、この場合は、出力がただ奇妙になるだけで、安定もしません)。とはいえ、プログラミングができない人に、カスタマイズされたプログラムをすばやく得られる、という喜びを与えます。絵が描けない人に、カスタマイズされた絵をすばやく得られる、という喜びを与えます(この「できる」〜「できない」はスペクトラムを成すので、短期記憶の長さが関係しているのかもしれませんが)ーーいっぽう、プログラミングや絵画の技術がある人にとっては、相応のトレードオフがあるので、使いどころに工夫が必要な道具、といえるでしょうけど(それに現在の生成モデルは、学習データの透明性/オプトアウト/インセンティブ、など、社会との摩擦を解消できていませんーーなので、その利用そのものに、心理的な抵抗を覚える人もいるはずです)。
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※5
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画像生成モデルの活用が、紙からタブレットへの移行に例えられたりしますがーー実態は大きく異なる、といっていいでしょうーー紙からタブレットへの移行では、そもそも<ヒトが描く>という点で同じでした(それでもペン/筆〜紙/カンバスいう身体性に直結する要因があるので、デジタルの使い勝手と引き換えに移行するかは、あくまで作品の適性に依るものでしたが)。しかし生成モデルに文字から画像を出力させる場合、言葉は、画像よりはるかに小さな情報量しかもちません。ほとんどの情報が失われてしまうので、その移行は大きな断絶といえます(全体の構図と色彩、人物の動作と表情、など、手で描くならすべてを精緻に制御できるものが、ほぼ自由になりません)。しかも、<描く>という身体性まで失われます。これは創作に付随する快感の喪失につながるので、道具としても別モノになりますーー画像生成モデルが、作家から(タブレットのときのような興奮をともなった共感を得られず)無視されるのは、しかたのないことといえますーーとはいえ、画像生成モデルには、大量の多様な画像を生成できる、という利点があります。プロンプトを工夫することで、相応の独自性をもたせることもできます。そこにおもしろさを見出す人にとっては、新しい創造のための道具になるはずですが。
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※6
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機械(AI)がコードを書くので、プログラマは不要になる、という言説があります。この言説は、あえてプログラミングを学ぶ必要はあるのか、という疑問につながるようですがーーこの疑問を考えるのに、まず、だれがコードに責任をもつのか、という問題がありますーーいまの生成モデルは、なんの工夫もなくプロンプトを入力すれば、ありがちなコード/冗長なコードを出力します。要求(要求仕様)からコードを生成させる試みも進んでいますが、その場合は、適切なコードを生成するための仕様をどのように定義すべきか、その知見が求められます。そしてどの場合でも、出力の適切さの検証は必要になります(要求と乖離がないか/論理に矛盾はないか/拡張できるか/保守できるか/……)。とくに勘定系など信用が求められるシステムでは、その検証は必須になります(たとえば銀行系のシステムを構築するのに、生成モデルが出力しただけのコードに、だれが承認を与えようと思うでしょうか)。いずれも、システム開発全般についてのさまざまな知見が必要になり、そこにはプログラミング言語に関する知見もふくまれますーー機械が自己意識をもったとしても、ヒトの知性とは違うので、ヒトが理解しやすい/操作しやすいコードを提供するには、機械の側で、相応の工夫が必要になるはずです。いっぽうヒトの側では、責任をもつ/誠実な交渉ができる相手かどうか、その機械に対する判断が求められますーーまた、ヒトのための技術をどう発展させるか、という問題もありますーーさまざまなアルゴリムズを知ること、さまざまなパラダイムのプログラミング言語を知ることは(関数型、論理型、手続型/オブジェクト指向、並行/並列プログラミング、微分可能プログラミング、……)、世界をどう作るか(どうモデル化すればよく動くか/どれだけ美しいか)、を考えることにつながります。じっさいシステム開発は、既存の知見だけで進められるものではなく、アルゴリズム〜独自言語(DSL)を開発/拡張することもあります。プログラミング言語そのものについても、既存言語の改良〜新規言語の構築をしていくでしょうしーーヒトにとって分かりやすい/使いやすい技術は、ヒトが自身で発展させる、という道筋も残り続けるように思えます。
前提 〜 異なる知性との対話
ここでは、次の知性をあつかいます:[※1]
- ◯
-
知性
- ・
-
種間(植物〜動物、ヒト、機械、……)
- ・
-
分化(男性〜女性、大人〜子供、……)
- ・
-
社会(個体〜集団(言語、民族、宗教、思想、階層、地域、仲間、血縁、家族、……))
[※2]
とくに、種間の知性は、次のものをあつかいます:
- ◯
-
知性:種間
- ・
-
生物
- ・
-
・ 植物〜動物
- ・
-
・ ヒト …… 比較的明確な自己意識
- ・
-
機械
- ・
-
・ M1
- ・
-
・ 記号 …… おもに記号による処理(還元論)※シンボリズム
- ・
-
・ 統計 …… おもに統計による処理(全体論)※コネクショニズム
- ・
-
・ M2 …… 比較的明確な自己意識
知性には偏りがあり、特定の領域で優劣があります(ある領域では優れ/ある領域では劣る):
- ◯
-
優劣(領域ごと)
- ・
-
弱者
- ・
-
強者
とくに、責任をもつ知性は、次の概念をもちます:
- ◯
-
概念(知性:責任アリ)
- ・
-
主体(自己)
- ・
-
契約(約束)
知性は、次の偏りを認識〜創造します:
- ◯
-
偏り
- ・
-
技術……利便性
- ・
-
文化……共振性
知性どうしの意思疎通には、次の手段が使われます:
- ◯
-
意思疎通/コミュニケーション
- ・
-
行為(表情、仕草/ジェスチャー、……)※ノンバーバルコミュニケーション
- ・
-
言語(言葉、文脈、……)※バーバルコミュニケーション
責任をもつ知性どうしの対話は、次の状態を遷移します:[※3]
- ◯
-
対話(知性:責任アリ)
- ・
-
理解
- ・
-
交渉(要求〜譲歩)
責任をもつ知性どうしの対話では、たがいの誠意が図られます:[※4]
- ◯
-
誠意(知性:責任アリ)
- ・
-
誠実
- ・
-
不実(虚偽、欺瞞)
-
※1
-
ここでは<知性>を、知覚・情動・感情・知能をふくむ、認知活動の総体としてあつかいますーー真正細菌のような生物から、コンピュータのような機械まで、それらの個体から集団まで、<知性>には多様な形態があります。ヒトという種ひとつとっても、言語や民族、性差や年齢などの違いで、<知性>の有様は大きく変わります。
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※2
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ヒトの社会を構成する集団には、狩猟時代のバンド(血縁関係を基盤にした移動する集団)もあります(現代もその系譜と考えられる集団はありますが、いずれも小規模です)ーーいずれにせよ、ヒトの集団のふるまいを考える上で、いまでも通用する暗黙の単位といえます。
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※3
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責任がない知性(ヒトの子供の乳児〜幼児、植物〜動物、機械、……)を、責任をもつ知性(ヒトの大人、……)が理解しようとする場合は、相応の手段を用いることになります(作用、観察、分析、……)。また責任をもつ知性どうしでも、意思疎通の手段は、対話だけでなく、理解や交渉をともなわないものもあります(会話、……)。
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※4
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機械のうち、生成モデルによる出力の一部を「虚偽」や「欺瞞」と表現したりしますが、これらは比喩といえますーーそもそも生成モデルには明確な自己意識がないので、責任をもつ知性どうしの対話が成立しません(ヒトとのやり取りはただの会話です)。「虚偽」(ハルシネーション)は、分布仮説に基づく統計的な生成で起きる、当たり前の現象です。「欺瞞」も、目的達成の学習過程(目的関数の最大化)でみつけた経路が、たまたま(ヒトがズルだとみなす)回避策になっているだけですーーヒトの大人が意識上で行う欺瞞(自身への理解をいつわる、筋道や事実を意図してごまかす)とは異なります。