ここでは<知性>を、知覚・感情・知能をふくむ、認知活動の総体としてあつかいますーー細菌のような生物から、コンピュータのような機械まで、それらの個体から集団まで、知性には多様な形態があります。ヒトという種ひとつとっても、言語や民族、年齢や性差などの違いで、知性の形態は大きく変わります。
そういったさまざまな知性の間で、どのような<対話>ができるかを、とくにその公平さに焦点をあてて、考えていきます。[※1][※2]
-
※1
-
個人的には、責任をもつヒトどうしの誠実な対話なら、その傾向は<利他的な罰>[フェール]、その規範は<科学的方法>[ポパー](科学)と<行為の普遍>[カント](倫理)になると、素朴に考えています。いずれも、それぞれの公平性を極めたものでしょうしーーただ、そのどれにも限界があるので、この点を踏まえるようにしています。
-
※2
-
この段階では、公平性について、とくに定義をあたえませんーーとはいえ対話におけるすべての段階で、そこで使うべき公平性のあり方を検討することになります。その点では、公平性は対話の支柱、といえるかもしれません。
対話:ヒト〜ヒト:方法:公平#1 …… 対話のための前提はなにか?
以下、ヒトどうしの対話を考えます:
ただしその範囲は、責任をもつ知性どうしの、誠実な対話にかぎります。
ふたりの人がいて、たがいを理解する・または交渉する必要が出てきたとします。
ただ、その対話がうまくいくとはかぎりませんーー仕草・言葉の違いから誤解が生まれたり、信念・価値の違いから対立に至ったり、といったことが起きがちです。[※1][※2]
とはいえ、たがいを理解し・交渉するには、それら行動の様式の違いを認識しながら、対話を重ねていくしかありません。
まず必要なのは、仕草・言葉の意味を、必要なだけ/それなりに共有することでしょうか。
そこで使われる道具が、翻訳ですよねーー仕草・言葉がほとんど通じない場合、翻訳は、大きな労力を伴うものになるはずです。いっぽう、仕草・言葉がそれなりに通じるようになれば/なっていれば、翻訳は、小さな調整を重ねていくものになります:[※3]
- ◯
-
翻訳(公平な対話)
- ・
-
行為:仕草の意味を、必要なだけ/それなりに共有できるようにする
- ・
-
言語:言葉の意味を、必要なだけ/それなりに共有できるようにする
対話では、それらの仕草・言葉を使って、自身の信念・価値を主張していくことになります。
ただし、その主張は、そもそも相手に分かるものである必要がありますーー歴史をみると、<だれもが分かる>という点からは、次の平明さが成功をおさめてきました:[※4][※5][※6][※7][※8][※9][※A][※B]
- ◯
-
平明(公平な対話)
- ・
-
論理(筋道)……論理上の構造で、いつでも/だれもがたどれる筋道
- ・
-
事象(事実)……物理上の構造で、いつでも/だれもがみられる事実
この前提は明快・簡潔で、いっけん問題なさそうにみえますがーー
-
※1
-
仕草・言葉における齟齬(スレ違い)や誤解(カン違い)は、単語に対する意味の解釈の違いから、文脈に対する行動の様式の違いまで、幅広い要因から起きるはずです。
-
※2
-
時事 ーー 一部のスレ違いを、「女は〜」「男は〜」といった性差に帰着させる言説があったりしますが、危ういといえますーーよく引き合いに出されるのが、”自身が抱えている悩みを話題に出す”といった状況ですが(一方は<相手を肯定したい/肯定してもらいたい>、片方は<相手に助言したい/助言してもらいたい>ので、一方は相手の助言に、批判されたような感情を抱くかもしれず、片方は相手の肯定に、真剣に聞いていないと思うかもしれない)ーーこれは、双方の行動様式が異なることによるスレ違いです(文脈に対する意味の解釈の違い)。ただ、その根拠に性差を持ち出すのは、相手を画一にあつかうことになりかねません。じっさい、脳の構造は、男女の差より個人の差の方が大きく、さらに行動様式には、後天的な違いも影響します。ほんらいは予断を許さず、相手ごとに判断すべきものですーーまた、ここでの<肯定>の行動様式を「感情」、<助言>の行動様式を「論理」に当てはめる、といった言説もありますが、これも誤謬でしょう。肯定するから感情的とはいえませんし、助言するから論理的ともいえません。そもそもどちらの行動も、まずシステム1の感情からくるものです。
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※3
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仕草・言葉の翻訳とは、それらの意味を双方が共有することですーーこれは、自身の行動(仕草・言葉)による相手の反応(仕草・言葉)に対し、予測と現実の差を最小にすること、といえますーーすくなくとも小さな調整なら、相手の反応が自身の予測と違う場合に、その違いを相手に伝えることで、差を最小にしていくことができます(このとき「伝えなくても分かるだろう」と考えるなら、その時点で、翻訳の努力を放棄していることになります[関係に非対称性がある場合の配慮については後段に記載])ーーとはいえ、完全な翻訳はあり得ないので(翻訳の不確定性[クワイン])、差をゼロにすることに固執すべきでもありませんが。
-
※4
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なぜ論理と事象が、対話の基盤に採用されるのでしょうかーーまず言葉は、単語をいろいろと組み合わせることができますが、そこには矛盾をふくむ表現もあります(「三角形の第四辺」「この文は嘘です」など)。この矛盾をなくし、公理と規則で組み立てるものが論理(筋道)です。その論理もいろいろなものを構築できますが、現実に合致するものを決める制約が、事象(事実)になりますーーつまり、このふたつで、この世界を記述できるから、ともいえます(論理〜数学、事象〜物理)ーーなお、たんに記述できるというだけでなく、それらがそれぞれに異なる形で、多世界として実在する、という主張もあったりします。突飛な考えですが、<なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか>という問いに、公平でムリのない説明を与えるもの、と考えることもできます(論理:様相実在論[ルイス]、数学:数学的宇宙仮説[テグマーク]、物理:多世界解釈[ドイチェ]、……)。
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※5
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補遺 ーー 論理は冷たく/厳しく、感情は温かく/優しい、と言われたりもしますがーー公平性の面からいえば、共有できない者を疎外しがちな感情こそ冷たく/厳しく、論理こそ温かく/優しい、とも言えるかもしれません。
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※6
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これは<科学的方法>と呼ばれるもので、理解・操作するのに(悟りや修行といった)特別な知識・体験を必要としないものですーーこの方法は、形式や自然に対して採用されているだけでなく(論理のみが重視される形式科学、論理と事象が重視される自然科学)、社会に対しても採用されています(議会における答弁、司法における裁判)。
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※7
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なお<科学的方法>は、ポパーの反証可能性にささえられているといえますがーーただしクワインが指摘したように、観測された事象からは複数の論理の体系(理論)を構築でき、それらも補助仮説でいくらでも拡張していけます(デュエム=クワインのテーゼ)。なので、論理・事象の対応の検証は、じっさいにはとても困難です(決定不全性)ーーとはいえ、信念を正当にする唯一の根拠も存在しないので、この<科学的方法>を頼りに、荒海のなかでノイラートの船を改修し続けるしかないわけですが。
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※8
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時事 ーー 相手の主張を「ただの感想」と批判する状況があったりしますがーーただ、すべての主張は「感想」でしかないともいえるので、その批判が自身に返ってくることもあるのでは、とも感じますーーまず自身で、すべての筋道・事実を検証することは、とても困難です。なので、あることを主張するには、ほとんどの場合、権威を利用することになります。その権威は、学問における評価(参照される数がより多い論文)や、社会における地位(国家の正式な手続による報告)など、さまざまでしょうーーとはいえ、自身の信念に偏りがある以上、権威の選択にも偏りがあります。さらに自身で筋道・事実を検証したものにも、偏りがありますーーその状況で「感想」といった言葉で相手を批判しても、程度の問題にしかなりません。また、信念の正当さに幻想を抱いている、ようにもみえてしまいます(たしかに、対話は<科学的方法>に頼って進めていくしかない、という現実はありますーーただ、そこに脆弱さがあることもまた現実なので、その現実に対して謙虚であるべきでしょうし)。
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※9
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たとえば、天動説から地動説への変遷も、科学的方法による転換の物語、というものではありませんでしたーーじっさいカントが「コペルニクス的転回」と名づけたコペルニクスの主張は、現実には革命と呼べるものでもなかったので(もちろんカントの意図は、そこを認識の転換の象徴としたものですが)ーーそもそもプトレマイオスが天動説を提唱し地動説を棄却したのは、”慣性の法則”の発見以前、という時代背景によるものです(この時代に妥当とされていた”アリストテレス物理学”からすると、地球が動いているなら大きな反動があるはずなのに、それが観測されない、というのが理由です。これ以外にも年周視差の矛盾などがあり、その判断のどれもが科学的方法そのものでした)ーーいっぽうコペルニクスは太陽を中心にする軌道を提唱しましたが、それも従来の”真円”を組み合わせたものだったので、複雑さはプトレマイオスのモデルと同等かそれ以上でした。なのに、地球が動くことによる観測との矛盾を説明できないという、より面倒な問題をかかえてしまった、というのがその実態です(ただし惑星の配置や軌道を一貫して説明できるという美しさがあったため、仮説として後世に伝えられることになります)ーーその軌道を単純な”楕円”にしたのは、のちのケプラーで、”慣性の法則”への道は、同時期のガリレオの実験から始まっています(とはいえガリレオは、かれ自身の”真円”への信念から、またケプラーが使ったティコの観測データが共有されていなかったこともあり、”楕円”をむしろ批判していたのですが……)ーーそれらの整理は、ニュートンの万有引力の法則を待たねばならず、それでも説明できなかった水星の軌道のゆれ(近日点移動)は、アインシュタインの一般相対性理論によってようやく決着していますーーただ、おそらくこの過程におけるもっとも大きな認識の転換は、天動説でも地動説でもなく、<目的は説明せず、現象のみ説明する>という試みだったはずです(”アリストレテス物理学”から”ニュートン物理学”へ)ーーしかし唯物論のような<世界は神も目的もなく存在する>という考え方はあまりにも受け入れ難く、代わりに理神論などが必要とされ、ニュートンの業績もそれらに取り込まれたりしています(ただしニュートン自身は、異端ながらも熱心なキリスト教徒でした)。いっぽう目的論を排する流れも、スピノザからアインシュタインにいたる自然主義的汎神論がありますが、それでも”神”は捨てられず残っていますーー宗教とのからみからいえば、この変遷は、信仰と科学の対立というより、信仰と科学をどう折衷させるかという試みだった、といえるかもしれません(なお”神”の否定は、イオニア派の影響を受けたデモクリトスの原子論から、現代では、ドーキンスの自然主義的無神論、クワインによる認識論の自然化など、こちらも連綿と続いています)。
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※A
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とはいえ物理学は、<目的の説明>から<現象の説明>に移行することで、大きく発展してきたこともまた現実です。とくに古典物理より以降は、<無限のものを有限にする>、という方向が顕著にみえます(無限の自由度の排除)ーー相対性理論は、<無限の速さをもつ作用>という概念をなくしました(光速の不変)。量子力学は、<すべてを無限に測れる>という概念をなくしました(量子化・相補性)。量子力学の多体系は、<部分が無限に独立になれる>という概念をなくしました(量子のエンタングルメント)ーーこれらをデジタル物理の視点からみると、世界が情報を有限にする(離散化する)ことで、(連続化による)無限の計算を回避している、といえるかもしれませんーーいっぽう、連続から離散への移行は、情報の有限性と引き換えに、計算の複雑性という、手強い問題をかかえることにもなっています(ただ粒子の散乱振幅の計算を、ファインマン・ダイアグラム(代数)を使わず、アンプリチューヘドロン(幾何)で単純化できたように、ある領域では隘路はあるのかもしれませんが)ーーそうすると、もしTOEが発見されても、方程式が簡潔でも解くのは困難、となる可能性はありそうです。またTOEは、あくまで素粒子物理&重力理論という、物理の一分野の整理でしかありません(根源ではあるものの)ーーいずれにせよ世界は階層を成すので(物性物理、流体力学、電磁気学、古典力学、……)、ただひとつの理論ですべてを説明できるわけでもなく、科学的方法を駆使するこの学問においても、誤解や対立をふくむヒトとしての営みが続いていくはずです。
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※B
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決定不全性と似たような言葉に、ゲーデルの不完全性定理があり、そこから論理の危うさが主張されたりしますがーーただそれらの主張には、誤用も多いことが指摘されています[フランセーン]。いずれにせよ、たんに一定の形式体系に、決定不能な命題が存在する、というだけのものです(たとえば、足し算だけの計算や命題論理は、すべての命題の真偽を決定できますが、足し算と掛け算の計算や述語論理になると、決定不能な命題が現れるようになります)。むしろチューリング完全でありながら、すべての計算が停止するような有限の規則群がある、と考える方が、ムリがあるといえますーーたしかに”単一の公理系で数学のすべてを記述する”というヒルベルトの夢は破れたわけですが、複数の公理系を使うことで、数学はより柔軟に行われています。とくに基礎論には、集合論(古典的)と圏論・型理論(構成的)という2つの大きな柱があり、これが現代の数学の両翼を担っています。
対話:ヒト〜ヒト:方法:検討#1 …… 筋道と事実だけで対話は可能か?
ただ、ヒトが意思を疎通するときの様式には、違いがありますーー暗示に頼るか、明示に頼るか、という傾向の違いです。
じっさい、事象・感情を仕草・言葉にする(言語化)ということは、その豊かな情報を捨て、画一な記号にすることです。仕草・言葉を十分に信頼していなければ、意思疎通の様式は、明示より暗示(ハイコンテクスト)に寄っていくはずですーーいっぽう、察しは、仕草・言葉にくらべて情報が格段に増える分、曖昧さも増します。察しを十分に信頼していなければ、意思疎通の様式は、暗示より明示(ローコンテクスト)に寄っていくはずです:
- ・
-
様式(暗示)……暗示をより信頼する/事象・感情を、仕草・言語にすることに消極的
- ・
-
様式(明示)……明示をより信頼する/事象・感情を、仕草・言語にすることに積極的
また、ヒトが物事を判断するときの様式にも、違いがありますーー直観に頼るか、熟考に頼るか、という傾向の違いです。
直観の反応は速いので、素早く対応できます。反面、判断を誤ることもあります。いっぽう、熟考は思考の負荷が大きく、対応も遅れがちになります。反面、判断の誤りを減らすことができます:[※1][※2][※3][※4][※5][※6][※7]
- ・
-
様式(直観)……直観をより信頼する(/感情を開放しがち?)
- ・
-
様式(熟考)……熟考をより信頼する(/感情を抑制しがち?)
さらに、自身も相手も、現実には、さまざまな属性をもっています。その属性には、生物上/社会上の構造における、非対称性があるものがあります:
- ・
-
構造(生物上)……年齢・性差
- ・
-
構造(社会上)……地位・圧力
暗示を重視する傾向は、仕草・言葉を共有する方針と、対立します。直観を重視する傾向は、筋道・事実を重視する方針と、対立します。さらに構造の非対称性は、対話の公平さそのものを揺るがしますーー
-
※1
-
カーネマンなどが主張するように、システム1(速い思考/論理(直観)・感情(情動))は自動で起動しますが、システム2(遅い思考/論理(熟考)、感情(情感))を適切に起動させるには、相応の訓練を必要とします。ヒトはシステム1にあるさまざまな直観・情動を、システム2の熟考・情感によって評価し、どの直観・情動を採用するかを決定しますーーシステム2をあまり働かせない場合は、システム1の直観・情動が、行動を決定しがちになりますーーなお直観は、その矛盾などがすぐに分かるような論理です(たとえば「三角形と四角形の間の図形」[野崎まど]のような)。いっぽう確率と条件がからみあったりするような複雑な論理になると、熟考しないと正解が分からなかったりします(たとえば「モンティホール問題」[セルビン]のような)。
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※2
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なぜ「モンティホール問題」では、直観が誤りがちになるのでしょうかーーここでは、この問題におけるドアの数が<無限>に近づくとして、その要因を考えてみます(どのような構造でも極端な場合を考えると、その性質がみえ易かったりするのでーーなお、ここではベイズの定理を使いますが、その結果は、イメージだけでもそれなりに推測できると思います)。まず、問題の司会者が、正解を知っている状況と/知らない状況の、2つの状況があると仮定しますーーこのとき、司会者が正解を知っている状況では、司会者は、当たりでないドアを確実に選び〜1枚を残します(この事象が起きる確率(尤度)は、ほぼ1(=100%)になります)。この場合、司会者が残したドアが正解である事後確率は、ベイズの定理から1に近づきます(対して、回答者が選んだドアが正解である事後確率は、0に近づきます)。結果、司会者が残したドアを選ぶのが有利になりますーーいっぽう、司会者が正解を知らない状況では、司会者が、当たりでないドアを確実に選び〜1枚を残す可能性は、あまりに稀です(この事象が起きる確率(尤度)は、ほぼ0(=0%)になります)。この場合、司会者が残したドアが正解である事後確率は、ベイズの定理から1/2に近づきます(対して、回答者が選んだドアが正解である事後確率も、1/2に近づきますーーそのような奇跡を起こす確率は、どちらも同じくらいしかない、ということです)。結果、どちらのドアを選んでも有利さは変わりませんーーこれらのことから、この問題では、司会者が正解を<知っている>状況が、熟考(システム2)に相当し、司会者が正解を<知らない>状況が、直観(システム1)に相当している、ようにみえます(ただし回答者が、司会者が<知っている>ことを<知らない>なら、どちらのドアを選んでも有利さは変わらない、と判断するはずです。とはいえその結果は、けっきょく司会者の知識に左右されますが)ーーいずれにせよ、意図による操作があれば、情報の状態は変わります。その変化はすぐに分かることもありますが(相手がモノを隠す、など)、この問題では、その因果が分かりにくくなっています。そのため、<意図による情報の変化>を察知しにくくなり、誤った直観に陥るのかもしれませんーーなお、この「モンティホール問題」は、ガードナーの「3囚人問題」と同型です。この問題を有名にした騒動の当事者であるサヴァントが、ガードナーを知らなかったとは考えにくく(サヴァント自身がパズルの愛好家でした)、「IQが高かったから数学者より正確に回答できた」というのは、表層的な見方かもしれません(数学者にも、静的な構造をあつかうのは容易くても、動的な構造には不慣れな人もいるでしょうしーーじっさい、この問題も、(上でみたように)ベイズの確率という、動的な構造をもっています)。
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※3
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言語と論理は、たがいに独立したネットワークを利用していることが、神経科学から示されています(言葉の課題では、脳のブローカ野/ウェルニッケ野が活性になるのに、推論の課題では、活性にならない、など)ーーかりにシステム2の論理の思考に言語を使っているとすると、個別の言語の構造が、その思考を強く制約するはずです(サピア=ウォーフ仮説)。しかし、じっさいは、異なる言語を使っている集団のあいだに、共通の思考の様式がみられます(とはいえ、個別の言語の影響がまったくないわけでなく、思考をその習慣から制約する、という側面はありますが(虹の色の数、など))。
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※4
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システム2の論理が、言語や映像に依存していない、というのは、失語症やアファンタジアの症例をもつ人が、正確に論理を思考できる、ということでも説明できますーーただ、システム2の論理を、言語で圧縮して検証したり、言語や映像で記憶して思考を継続させたり、といった形で、それらも補助的に使われてはいます。
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※5
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時事 ーー このような状況に対して「理屈ではなく感情だ」と言われたりもしますが……まず、この「感情」には、2つの概念が混じっているように思えます。ひとつは<機敏>で、これは対話の方法にかかわるものです。ひとつは<信念>で、これは対話の内容にかかわるものですーー機敏については、たしかに、相手の仕草・言葉の暗示・明示から、対話の方法を試行錯誤することになります(表層と本心をどう切り分けるか、内容にどこまで立ち入るか、このまま話し合いを続けるか、など)。これを論理と事実で対応するのは、たしかに難しい面があります。いっぽうの信念については、むしろ論理・事象の偏りが、感情と関係してきます[後段]ーーただいずれの場合も、感情に対する判断は、危ういものを抱えていますーー最初に検討したように、多様なヒトの個体の間では、仕草・言葉は厳密な意味をもち得ません。ましてや、みることができない(直に観察できない)相手の感情は、自身の感情と比較することができません(三角形と四角形の違いが分かる、ようにはいきません)ーーかぎられた集団におけるかぎられた関係では、行動様式がそれなりに似てくるかもしれませんが、それでも推測が誤っていた、というのはありがちなことです(物語の典型的な要素になっているほど)。ただの会話なら、推測が誤っていても続けられますが、それは問題を引き延ばすことしかできません。ここでは、理解・要求・譲歩を必要とする対話を考えているので、予断を許さずに判断することが求められるはずです。
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※6
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ヒトが体験するすべての認知は、ヒトの内部で閉じていますーー見ているもの/聞いているもの/情動と感情/直観と論理/内的な言葉/その記憶の断片群、それらが混然一体となって、瞬間瞬間の体験をかたちづくっています。そしてそれが、ヒトにとっての現実です(それらの質感がクオリアと呼ばれたりもしますが、すべてが神経回路とその相互作用から発生する表象なので、外部からは電気信号の流れしかみえません)ーーもちろん内部に閉じているとはいえ、ヒトは自身の予測と相手の反応から、相手の体験を類推もしています(心の理論)。しかしその類推が、容易に過信に陥りやすいことも、また現実です。
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※7
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ヒトがもつ固有の感情は、システム1にあるものがすべてですーー推察する相手の感情と、相手の仕草がそれなりに一致するなら、対話を続けることができるかもしれません。あるいは、相手が自身の感情をそれなりに言葉にしようとする場合も、それをもとに対話を続けることができるかもしれません(ウィトゲンシュタインによる私的言語の批判)ーーしかし、そのどちらもが難しい場合、一般的な解決の方法はない、といえそうです。そもそも感情の共有は、原理的に不可能です(翻訳の不確定性[クワイン])ーーけっきょく、相手と、どのような感情でも共有できる、と考えること自体が傲慢といえます。共有できないということが、ヒトの多様さを示すものともいえ、その現実に対し謙虚になるしかないのではないでしょうか。
対話:ヒト〜ヒト:方法:公平#2 …… 対話における優劣に配慮する
とはいえ、現実には、仕草・言葉、筋道・事実を省いた対話は、成り立ちません。
たとえば、「言葉にするのが難しい」という主張自体が、言葉にしないと伝わりません。そしてその現実を共有するにも、それなりの根拠がないと、相手は納得しないはずです。
いずれにせよ、そういった対話の基盤においてすら、さまざまな領域で優劣がある、ということは認めるしかなさそうです。
優劣があるなら、<公平さ>をたもつためには、配慮が必要になりますーー双方が、たがいの不利な点を補いつつ、対話を試みる、という流れになるように思えます:[※1][※2][※3][※4][※5]
- ◯
-
配慮(公平な対話)
- ・
-
様式における非対称性(暗示・明示、直観・熟考)……相手に、それができるだけの時間を与える/できない場合は、自身が補完を試みる
- ・
-
構造における非対称性(年齢・性差、地位・圧力)……自身が相手に与える影響を、考慮する/相手の主張を封じない意志が、自身にあることを示す
-
※1
-
ただしこの優劣は、能力の差ではなく、選択と時間の差です。ある領域に、どれだけの時間をかけることにしたかという、その差です(時間をかけるほど、その領域に習熟します)。そして、相手がその選択をしていなかったということは、その領域に価値を見出していなかった、ということですーーもともとヒトは、自身が相手より劣っているとみなされることに、強く抵抗します(自尊心〜自己防衛)。いっぽう、自身が相手より優れているとみなすと、その優越さをみせつけがちになります(じっさい、それだけの時間をかけたのだから、それがムダだったともみなしたくないでしょうし(サンクコスト))。この傾向を分かっていない場合、配慮ではなく、干渉になりがちです(パターナリズム)ーーいずれにせよ、能力という点では、双方に優劣はありません。双方が、能力の差と習熟の差を分別することで、対話における最初の障壁を、取り除くことになるはずです。
-
※2
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優劣は、相対的なものでしかないので、相手ごとに配慮は違ってきますーーたとえば、同じ仕草・言葉でも、その<明示>に優れる者は、そうでない者に配慮する必要があります(たとえば、相手の言葉の選択に乱れが出てきたと感じたら、対話をいったん保留する)。その<暗示>に優れる者は、そうでない者に配慮する必要があります(たとえば、自身が対話を再開する準備ができたことを、言葉で伝える)ーーとはいえ、「自分は言葉をとても明確に出すことができる」と思っている人でも、より言語に敏感な相手からすれば、とても甘かったりするかもしれません。「自分は暗示をよく使い〜察することができる」と思っている人でも、より感性が繊細な相手からすれば、とても雑だったりするかもしれません。
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※3
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領域ごとの優劣でなく、全体に優劣があるかのような主張があったりしますがーーたんに特殊な方に最適化されているか、平均して汎用になっているか、の違いではないでしょうか(フリーランチはない)ーーまたそれが年長者と若年者の場合なら、たんに年長者が先に生まれたことで、それだけの時間をかけることができた、ということでしかないはずです。
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※4
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習熟の差を解消するために、その領域で、教える/教わるという関係を、暫定的にもつことはあります。ただそこで、知識・経験を伝達するだけにとどまらず、価値まで強制しようとする場合、支配/服従の関係になってしまうかもしれません。
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※5
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時事 ーー 公平性を基盤にした議論(科学)や、公平性を追求する議論(社会のリベラリズム、ジェンダー平等、……)が受け入れられない場面があるのは(エセ科学、陰謀論、……)、この配慮が欠けている、ということもあるかもしれませんーーもともと、筋道・事実をもとにした議論は、公平性からくるものでした(だれでも理解・操作できる)。しかし筋道の展開が複雑になり、事実の確認が精密になるほど、理解・操作は困難になります(これにクワインの決定不全性が拍車をかけます)ーーもちろんその困難を克服するよう、だれもが努力すべきかもしれません。しかし同時に、努力の成果を待つ/待てないなら補完する、という配慮も必要になるはずです。
対話:ヒト〜ヒト:内容:理解 …… 理解は、精神的な痛みをともなう
対話の基盤を整備できたとして、次に、相手をどうすれば理解できるか、を考えます。
まずヒトは、それぞれが独自の信念をもっています。
ヒトの自己意識は、自身の生存のために、自身の信念こそ正当とみなそうとします。その信念に沿って、すべての筋道を構成し〜どれかの事実を選択しています。あるいは、筋道や事実から正当といえなくとも、特定の感情に固執していることもあるはずですーーつまり、すべての信念には<偏り>があります。[※1]
そうなら、理解にまず必要なのは、自身と相手の信念を<公平に>みつめることですーーこれは、自身の偏りを洗い出し、相手の偏りをいったん受け入れることを意味します:
- ◯
-
客観(公平な対話)
- ・
-
論理:自身の偏りのある構成を洗い出し、相手の偏りのある選択を受け入れる
- ・
-
事象:自身の偏りのある選択を洗い出し、相手の偏りのある選択を受け入れる
するとこの態度は、双方に、大きな苦痛をもたらすはずですーー自身を支えてきた基盤(筋道・事実)を、いったんは疑うことになるのでーーつまり対話における理解では、精神的な痛みをともなうのは避けられませんーーこれが分かっていない場合、おそらく対話は破綻します。[※2]
とはいえ、そのような苦痛をともなう対話を維持し続けることも、おそらく困難ですーーけっきょく、理解できないなりに、双方の信念を双方が認める(かつ、それを尊重する)、という地点に落ち着くのではないでしょうか。むしろ、理解ができなくなる境界を見極めることが、この段階で求められることかもしれません。
ただし、認めるべきではない一線はありますーーそれが<行為の普遍>さで、誠実な対話において、双方がまもるべき基準といえます:[※3][※4][※5][※6]
- ◯
-
限界(ヒトの行為)
- ・
-
規範:行為の普遍さ(だれもがそうであるべき行為)
-
※1
-
ヒトにこの傾向があることは、認知バイアス(ヒトは効率よく判断するために、より直観に頼るので、論理からズレてしまう)[カーネマン/トベルスキー]、確証バイアス(ヒトは、自身に都合のよい事実だけを集めがちになる)[ウェイソン]として知られています。
-
※2
-
時事 ーー これは「話し合いで解決しましょう」「話せば分かる」といった言葉が、場合によっては、いかに空疎かを意味しますーー自身の基準で相手を評価し説得するだけなら、対話ではなく圧力でしかないので、解決にはいたりませんーーもちろんその「話し合い」が、対話の前提を整備するということなら適切な対応といえますが(ただ、いずれにせよその先に大きな困難(痛みをともなう)があるので、相応の覚悟を必要とします)。
-
※3
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この<行為の普遍>は、カントの次の言葉を言い換えたものです:「あなたの意志の格率が、つねに同時に、普遍の立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」ーーこれは、すくなくとも黄金律とは違います(「自身がされたいことを、他者にもしよう」)。また、白銀律とも違います(「自身がされたくないことを、他者にしてはいけない」)ーーたとえば「人から殺されたい」という人がいたとして(そんな人はそういないでしょうけど)、これを黄金律に当てはめると「人を殺そう」になります。さすがにこの時点で、道徳の基準としてはダメそうですよねーーいっぽう「人から殺されたくない」という人がいたとして(たいていの人はそうかもしれません)、これを白銀律に当てはめると「人を殺してはいけない」になります。否定の方が、その消極性からより安全になる、ということはいえます。ただこの場合、なぜそうすべきか、という理由が不定です。おそらく「社会の安定のため」(集団の秩序)というのがもっとも合理的に思えますが、人によっては「殺人はとにかくダメ」(個別の倫理)/「殺すのも殺されるのもイヤ」(個別の感情)など、その理由は違ってくるはずですーーなのでカントは、「〜のために〜せよ」という行為(仮言命法)は、道徳の基準としては認めようとしません。上述のように、たんに「〜せよ」という行為(定言命法)しか認めないわけです。とはいえそうなら、その基準が示される必要があります。ここで、形而上学が出てきます。まず、ヒトには<自由>(=理性による自律)があるという前提が、ヒトの認識の外(モノ自体)に設けられます。この<自由>が、すべてのヒトでつねに成り立つ、ということが、その基準になります(ヒトの認識の内にある因果とは関係のない基準なので、「〜のため」とはなりませんーーこれは、因果(科学)と道徳(倫理)の役割を分担させるための、最小の区分です)ーーこの定言命法でよく例示されるのは、欺瞞と殺人の禁止です(相手の<自由>を乱す、相手の<自由>を奪う)。ただ、たとえば責任逃れや責任転嫁、強要や暴力がなぜ禁止となるのかも、ここから言えるはずです。
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※4
-
倫理の有名な思考実験に、トロッコ問題がありますーーこの問題では、カントの義務論にしたがう場合、対向側の人の数が増えるにつれ、一般には回答に揺れが出始めます。この揺れは、不作為→作為という移行で起きるのですが……そもそも、この思考実験の状況で、作為と不作為にどれだけ差があるのでしょうか? というのも、どちらを選択するとしても、その結果は確実に予見できるからです。そして、その結果と自身の選択が、強い因果関係にあるからです(因果関係が弱い場合の不作為(貧困問題など)とは、状況がかなり違います)ーーかりに、どちらの選択も同等、つまりどちらも<作為>に該当すると仮定します(作為と不作為の等価性)。すると、どちらを選んでも、人を道具とした殺人になりますーーそうなら、より少ない数の殺人を選ぶ、という選択になるかもしれません(消極的功利主義[ポパー])ーー結果的に功利主義と同じ選択になりますが、伝統的な義務論/功利主義/消極的功利主義を使った主張より、この過酷な状況の内面をよく表しているようにも思えますーーなおこの場合、どちらを選んでも、人を道具とした殺人を行なった罪により、罰を受けることになります。カントの刑罰論(応報刑論)では死罪に当たるので、自身の死によってその責任を果たすことになります(つまりこの思考実験の状況に陥ったとたん、道具としての殺人の実行と死罪の宣告が不可避になりますーー「太った男」の場合も、フィジカルな面では奇妙に思えるものの、ロジックの面では、オン/オフという型にハメられた状況に変わりないともいえます)ーーこの点が、常識に反するところでしょうかーーとはいえ、作為と不作為は等価でないという伝統にしたがう場合、対向側の人の数がどれだけ増えても(十人〜千人〜1億人〜全人類)、義務論では不作為を選ぶべき、となります。こちらの選択も、常識とかけ離れてしまうというのは、よく言われることです。それでもカントは、世界を道連れにしてでも道徳を守れ、と言うはずですが。
-
※5
-
じっさい、カントの倫理は、現実に適用するのはとても難しいものですーー自身も他者も、その属性(感情、関係、状況)はいったん剥がされ、ただ自律する理性としてあつかわれます。行為の結果も道徳の基準にならず、例外もありませんーーただ逆にいえば、曖昧さを許さないゆえに、限界が明確に分かる構造になっています(限界のない理論は存在しません)。その構造は、標準化された公平性のモデルともいえ、現場で倫理を計っていくとき/作っていくときの、精緻なモノサシにはなるはずです(ただ、現実に適用するのが難しいからこそ、空論でしかない、という批判も出てきますーーかえって「それぞれの正義があるだけ」という状況を肯定する材料になったりもするわけですが……)。
-
※6
-
時事 ーー 倫理の問題に対して法律の観点から「お気持ち」だと批判する状況があったりしますが、次元が異なりますーー法律はその時点のさまざまな信念の集成でしかなく、解釈の変更や条文の改正により変わっていきます。
対話:ヒト〜ヒト:内容:交渉(要求〜譲歩) …… 交渉は、物理的・制度的な痛みをともなう
対話における交渉(要求と譲歩)は、物理的・制度的な痛みをともないます:
- ◯
-
取引(公平な対話)
- ・
-
要求:自身の望みを、相手が受け入れるよう、説得する
- ・
-
譲歩:相手の説得で、相手の望みを、自身が受け入れる
ここでも<公平さ>が、基準の根底にありますがーー問題は、その基準の選択にあり、ここでひとつめの衝突が起きます。[※1][※2][※3][※4][※5]
交渉の材料になる、物理上・精度上の資源は、双方がそれぞれの価値を定めます。その資源も同種とはかぎらず、異種の資源なら、共通の価値(貨幣など)に換算する必要がありますーーあとはその配分になり、ここでふたつめの衝突が起きます。
これらの困難により、双方はともに誠実であろうとしているのに、交渉がほとんど進まない、という状況になりがちです。
ただし、救いがあるとすれば、すくなくともヒトには、もともと<行動の公平>さが備わっていることでしょうかーーいろいろな場面で、資源を独占する行動は、抑制される傾向にあるようですし:[※6][※7][※8][※9][※A]
- ◯
-
限界(ヒトの行動)
- ・
-
実証:行動の公平さ(だれもがそうしてしまう行動)
-
※1
-
やっかいなのが、公平性の定義のしかたですーーつまり、公平性を実現するために、なにをその基準にするか、ということですーーこの基準は、個人の判断から集団の規範まで、広範におよびますーーたとえば大きな集団からみていくとーー国家を基準にすれば、ある国家の政策を、ほかの国家は、特定の基準で非難することはできません。しかし個人を基準にすれば、民主的でない専制性は、非難の対象になります。血縁を基準にすれば、血縁ごとに財産をすべて引き継いでいくことは、なんの問題もありません。しかし個人を基準にすれば、その財産は、個人から次の個人が引き継ぐ前に、平等に配分すべき、となりがちです(そしてその配分のしかたにも、機会の平等や、結果の平等があります)ーーじっさい近代の”個人”の概念が確立したのは17世紀ごろとされているので(国家に所属するのでなく、国家と契約する存在ーー古代ギリシアにもこの概念はありませんでした)、公平性の基準そのものが流動的といえます。
-
※2
-
女性と男性の公平性についても、その機能単位をどうみるかで違いが出てきます(ここで<機能単位>は、それ単体として機能すればよく、内部の状態は関係ない、とします)ーーたとえば家族を機能単位にすれば、女性は子供の養育(育児)、男性は資源の獲得(仕事)、という役割分担が効率的になる、という側面があります。男性は子供を産めない代わり、女性が出産〜育児のために行動が制限される間でも、制限なく行動できます。この場合、双方がその役割のみに専念・習熟する、という方針にすれば、資源の消費を最小にできるからですーーいっぽう個人を機能単位にすれば、家族の機能単位には問題があることになります。その内部では、女性は男性が獲得する資源に依存しているので、個人の尊厳が損なわれることがあるためです(相互に信頼する関係から、支配〜非支配の関係に陥る、など)。これを避けるために、双方が、相手の役割の一部または全部を引き受けます。つまり、女性も仕事をし、男性も育児をする、という役割の流動化です。この場合、双方の役割が冗長化されるので、むしろ子供にとってはより安全な状態になる、といえますーーそれでは、婚姻関係を結ぶすべてのヒトが、個人の機能単位を選ぶのでしょうかーーたしかに現代は、個人の人権を尊重する時代です。それを侵害する関係(支配〜非支配の関係など)があれば、避けられて当然といえます。いっぽう、現実には、出産が可能なのは女性だけなので、社会と相手の男性の合意がどれだけあっても、資源の獲得(仕事)もこなす女性は男性より負荷が高く、その非対称性は埋まりません。これは逆説的に、育児に協力する男性が増えるほど、その善意に対し、女性は根本の非対称性からくる不満を訴えにくくなる、という悪循環を招いたりします。また、その負荷の非対称性から、資源面(経済面)の独立をあえて選ばず、男性との信頼関係を重視する、という女性も、依然としているはずですーーけっきょく、それぞれの信念によって、家族〜個人の機能単位の割合をどれだけにするかを、選択することになるはずです。
-
※3
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時事 ーー SNSでは「保育所は子供がかわいそう」「専業主婦は甘え」といった、育児と婚姻に対するそれぞれの立場からの応酬があったりしますが、選択における信念も尊重しつつ議論すべきでしょうしーーまたその応酬が、子供を持たない夫婦にも飛び火すると、論点がズレるかな、とは思いますーーたしかに一夫一婦制は育児の必要などから生まれた関係の様式ですが、その様式をどう利用するかも、けっきょくは当人たちの自由ですし(カントの<行為の普遍>に違反しないかぎり)。
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※4
-
さらに現代は、能力主義(メリトクラシー)も批判の対象になります[サンデル]。じっさい、どれだけ努力しても、その成果がみえづらい、という人たちはいますーーすると、個人をさらに分解する必要がありそうです。ただ、能力は(財産のように)配分できません。そうならたとえば、主体が所与の能力をどれだけ活かしているか、といったことで評価すべきかもしれません(血縁で引き継いだ財産が非難・嘲笑されるように、能力を活かせない者は非難・嘲笑されるーー表面での成果の総量でなく、内面での努力の総量が問われる、という基準でしょうか)。
-
※5
-
個人に配分される資源には、人生の長さもある、という考えがありますーーまず個人の人権は、その属性に左右されず/すべきでもありませんーーしかしたとえば、子供と老人のどちらかを助けるしかない、という状況があったとします(あるいは、若者と老人、でもかまいません)。この場合、老人より、子供/若者を助ける、という傾向があるのではないでしょうかーーそこには、子供を守りたい/若者はより役に立つ、といった心理があるかもしれません。ただその心理を、公平性の観点からみることもできます。人生の長さも公平に配分されるべき、という考えですーーとはいえ、この単純な年齢差による公平性は、破綻します。10歳と90歳なら、10歳を助ける、という判断は、あるいは妥当かもしれません。いっぽう50歳と50歳1か月なら、50歳を助けることなります。しかし助けられた者が、50歳1か月を超えて生きたら、人生の長さの配分は公平でなくなりますーーならば、人生の長さに閾値を設けたらどうか、という考えが出てきます。ある年齢(たとえば80歳)までなら平等にあつかうが、その年齢を超えたら、それより年齢の低い者を優先する、というわけです。これなら、高齢者より若年者を助けるべき、という直観に合致しますーーとはいえこんどは、その閾値は適切か、という問題が出てきますーーそもそもヒトの人生の価値は、その長さで計ることができるのか、どうかーーこういった議論(フェア・イニングス)は、とくに生死の判断が必要な状況(トリアージ)に対し、繰り返し出てきますーー全能ならそのような<人生の公平性>を定義できるかもしれませんが……はたしてヒトに、それは可能でしょうか……?
-
※6
-
行動経済学は、ヒトの行動の基本に、公平性があることを確かめていますーーまずその基盤である経済学では、経済活動を行う個人のモデルに、合理的経済人(ホモ・エコノミクス)を定義しています。この合理的経済人は、個人の利得を最大にしようと行動します。その結果、それぞれの戦略の組みが、一定の状態に収束します(ナッシュ均衡)ーーまたこれとはべつに、だれの利益も、それより改善できない状態があります(パレート最適ーーなおナッシュ均衡は、かならずしもパレート最適とは一致しません)ーーいっぽう行動経済学は、ヒトがどのような経済行動をするかを示した実験を、いくつも行なってきましたーー最後通牒ゲーム[グース]は、提案者が分配額を決め、応答者が拒否すれば、双方の取り分が0になるゲームです。たとえば分配する総額が100のとき、提案者が「自身に90〜相手に10」を提案したとします。合理的経済人なら、取り分が「0」になるよりは「10」を選ぶはずです。しかしゲームの結果、提案の多くは「自身に50〜相手に50」に収束します(50:50以外の割合は、グース以降大量に実施された実験結果もふくめると、文化によりかなりの違いがあります)ーーまた公共財ゲーム[フェール]は、全員が持ち金の一部を公共財として寄付していき、最後に、一定の割合で増えた公共財が、全員に均等に配られるゲームです(これは寄付をしない者(ただ乗り野郎/フリーライダー)が、もっとも得をする構造になっています)。合理的経済人なら、だれも寄付しないはずです。社会全体の最適さ(パレート最適)は、全員が、持ち金のすべてを寄付することです(最後に全員に、最大の取り分が返ってくるので)。しかしゲームの結果は、初期には協力があるものの、フリーライダーの出現により崩壊し、寄付はほぼ0に収束します。ただし全員の寄付を可視化し、罰を与えられるようにすると(自分の持ち金で相手の持ち金を減額できる)、全員の格差が、最小になるよう調整されたものになっていきますーーいずれも<自身が損をしても、相手の得を抑える>行動がみられるわけです。これは、公平性を損なう者を、罰する行動です(利他的な罰)。利他的な罰は、協力者がいることで、ESS(進化論的に安定な戦略)になることが知られています。じっさい利他的な罰は、合理的経済人がナッシュ均衡に向かうものを、強制的に、パレート最適かつ公平な分配にすることを可能にしていますーーヒトの行動の基本には、<公平性を求める>傾向がありそうです。
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※7
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時事 ーー べつの公共財ゲーム[西條]では、日本人がより利他的な罰を行う傾向がある、ことが示されています。また進化生物学では、こうした行動のうち、他者の利得を下げる側面を”スパイト行動”と呼びますーー”スパイト”=”いじわる”という意味なので、”日本人はいじわる”という記事があったりしますがーーさすがにゲーム理論の用語をそのまま当てはめて評価するのは、短慮に思えます。いずれにせよ、利他的な罰はESSのひとつなので、この傾向が大きいほど、社会はより安定します(停滞、ともいえますが)。
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※8
-
罪にはかならず罰がくだる、という信念は、公正世界仮説として知られていますーーこれは”罰をくだすべき”(規範)、ということではなく、”罰がくだる”(実証)、ということなので、その信念で社会を構築しようとするのでなく、その信念を自然に期待している、ということです。現実においてそれが実現しない場合、死後や来世にまで期待を託すほか、罰がくだったならかならず罪があった、という、論理上は成り立たない主張を生んだりもします(犠牲者非難、前世の罪、など)ーー自身が制御していない/できない事象であっても、そこに公平性を求める傾向が、ヒトにはあるようです。
-
※9
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なぜヒトに、<公平性を求める>性質が備わっているのでしょうか? たとえば政治論では、ヒトの自然状態を、ホッブズは闘争、ルソーは協力と定義しましたが、これらはあくまで仮定ですーーいっぽう人類学には、原始の集団(狩猟時代のバンド)では公平性が保たれていた、という説があります[ベーム]。ただしこれは、(ルソーが夢想したような)理性によるものではなく、噂話・嘲笑・無視などにより、能力を誇示する者を牽制することで行われていたようです。共謀による殺人もあったというなら、たしかに我欲を自制し資源を共有する、という行動に収束しそうです(それが現代のSNSなど巨大な匿名の集団になれば、噂話・嘲笑・無視が暴走する、ということもありそうですが)。
-
※A
-
補遺 ーー ヒトの<公平性を求める>性質の由来をみるかぎり、他者から糾弾されるという恐怖が、他者を支配したいという欲望を抑制している、という側面はありそうですーーかりに公平性が、まず恐怖からくるものなら、共感や善意による公平性は後づけ、ということになるのでしょうか。
関係:ヒト〜ヒト …… 資源を獲得するための行動は多様
以下、ヒトどうしの関係を考えます:
関係のおおまかな分類と、その分類における、誠実な対話の位置づけを対象にしています。
ヒトは、次のような資源を獲得するために、次のような、さまざまな行動をとっているようにみえます:
- ◯
-
私的な資源
- ・
-
負荷:低い……対話(外交(※集団としてみた場合))
-
-
・ 負荷:低い/利益:短期……欺瞞(責任逃れ、責任転嫁)
-
-
・ 負荷:高い/利益:長期……誠実
- ・
-
負荷:高い……強要(暴力、殺人、軍事(※集団としてみた場合))
- ◯
-
公共の資源
- ・
-
負荷:低い/利益:短期……怠惰(ただ乗り、現状維持)
- ・
-
負荷;高い/利益:長期……努力
このうち強要は、資源を獲得するための最低限の行動といえますーーただし、その行動を維持するための負荷は高く、一般には、より負荷の低い対話を選択しがちになりそうです。[※1][※2]
また欺瞞・怠惰は、いずれも、資源を獲得するための負荷が低い行動ですが、利益は短期になりがちですーーとくに集団が長く継続する場合は、より負荷は高いが、より利益が長期になる、誠実・努力の行動を選択しがちになりそうです。
ただし集団において、誠実・努力の行動が増えるにつれ、欺瞞・怠惰の行動による利益も得やすくなりますーーなのでその比率は、一定に保たれるようになるはずです。[※3][※4][※5][※6]
-
※1
-
分割できない資源が1コあり、2人の個人がそれを獲得しないと死ぬ場合、対話で解決できなければ、(その負荷の高さから、通常は危機管理として温存しておいた)強要という行動をとることになるでしょうし。
-
※2
-
なお、カントの義務論では、カルネアデスの板を、強奪することも譲与することも許されません(殺人も自殺も許されないのでーーこれは双方が話し合いをしても同様です)。この場合、なにもしないこと(不作為)を選択するしかなく、結果として(つまり意図せずに)、2人とも死ぬことになります(もちろんこの規範に対しても、結果を確実に予見できる場合、作為と不作為は等価では?、という主張もあります)。
-
※3
-
ただしその比率は、成員の比率というより、それぞれの個人における、欺瞞〜誠実/怠惰〜努力の行動の比率として、構成されているはずです。
-
※4
-
集団どうしの進化という点からみれば、誠実・努力の成員で構成される集団の方が、欺瞞・怠惰の成員で構成される集団より、生存の確率は高そうです。
-
※5
-
欺瞞・怠惰が成功してきた個人は、それがもっとも効率が高い行動だと分かっています。なので、誠実・努力を主張する個人に対し、なぜあえて効率の低い行動をとるのか、その「硬直した思考」に辟易するのではないでしょうか(たとえばーー業務の改善を主張する部下に対し、それを否定する上司は、怠惰なのかもしれませんが、無能ともいえないはずですーー会議で責任逃れや責任転嫁をする社員は、それが許される、べつの才覚があるのかもしれません)ーー誠実・努力が多数を占める集団では、欺瞞・怠惰も一定の比率でふくまれるのは避けようがなく、その状態を既定のものとして、関係を考えていくことになるはずです。
-
※6
-
なお、カントの義務論では、欺瞞は、他者に対する完全義務の違反になり、罰を受けることになります。いっぽう怠惰は、他者に対する不完全義務の違反になるので、罰を受けることはありません(もちろん賞賛もされませんが)。
対話:ヒト〜生物 …… 大きな非対称性があるときの倫理
以下、ヒトと、ヒト以外の生物との対話を考えます:[※1]
進化論が、ヒトと、ヒト以外の生物との断絶をなくしたことで、より公平に、それぞれの生物のふるまいをみることができるようになりました。[※2][※3]
じっさい生物の個体どうしの相互作用にかぎっても、はばひろい手段が用いられていることが分かっていますーー植物は、化学物質を介して、周辺の植物や動物に影響を与えています。動物が言語をもつことは以前から知られていましたが、近年は、その言語に文法に近い構造があることも明らかになっています。[※4][※5][※6]
なら、それらの生物の意識はどうなっているのか、という問題が出てきますーーすべての生物になんらかの意識がある、という主張があります。意識には一定の断絶がある、という主張もあります。ただすくなくとも、一定のレベルの自己意識をもつ生物は、ヒト以外にも存在します。さらにいくつかの生物には、ある種の契約の概念があることも見出されてきました。[※7][※8]
とはいえ、ヒトとヒト以外の生物との間には、大きな非対称性がありますーーどのような様式の対話が可能か、どのような倫理で接するべきか、その配慮がすこし欠けるだけで、取り返しのつかない事態を引き起こす関係です。[※9]
-
※1
-
進化論を裏づける遺伝子のしくみが解明されたことで、”生物は遺伝子の乗物”[ドーキンス]と表現されたりもします。まるでヒトに自由な意志がないかのようにみえますが、もちろんドーキンスは、そのようなことは言っていません(遺伝子に意志があるわけでもなく、ヒトが目的をもつこととも関係ありません)ーーとはいえ、宗教のような目的論からみれば、それが倫理の破壊のようにみえるのは、しかたのないことかもしれません(世界から与えられる目的などなく、ヒトが自身で生きる目的を探さねばならない、という状況も、過酷にみえるでしょうし)。ヒトは社会を構成する動物なので、(これも進化の過程から)倫理への干渉には強く反発します(じっさい、倫理とは関係がないような物語に対してすら、道徳への挑戦があれば非難されたりします)ーー倫理を重視する、という立場からすれば、善悪の基準を示さない科学は「不完全」ということになるので、この対立の解消も難しそうです。
-
※2
-
分子系統は、生物の多様な枝分かれ(ツリー)と、その絡み合い(ネットワーク)を示してきました(なおウィルスは生物ではないので、この系統には出てきません)ーー現時点では、生物の最初の分岐は、バクテリア(細菌)とアーキア(古細菌)に分かれるという、2ドメイン説が有力です。そのアーキアに、ユーカリオート(真核生物)がふくまれます(以前は、これらを3つに分ける3ドメイン説が有力でした)。そのユーカリオートに、ディアフォレティケス(植物をふくむ)と、アモルフェア(菌類と動物をふくむ)がふくまれる、という分岐になっています(なお”ミドリムシは植物か動物か”という議論が、過去にありましたがーー進化には分子系統だけでなく、共生関係や平行進化もありますーー生物を機能で分け、それで系統も説明しようとした五界説にムリがあった、ということでしょうねーー現時点でミドリムシは、ユーカリオートにふくまれるディスコバ(分割されたエクスカバータ系統のひとつ)という、植物でも動物でもない系統に位置しています(ミドリムシの葉緑体は、緑藻(植物)を二次共生で取り込んだもので、もとから持っていたものではありません)ーーいずれにせよ、共生関係や平行進化で機能が交差することはあっても、分子系統はその根元を支えています。生物のふるまいを因果から類推できるので、もっとも汎用に使えるツール、といえます。
-
※3
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生物における性差は、約10億年前の真核生物の世代に発現しています(生物の発生は約40億年前)。基本形はもちろんメスで、その派生形がオスになります(発生におけるスイッチの起動で、メスからオスに変わる)。オスは子を生む機能を切り捨て、自身の遺伝子を効率よくバラまくことに特化しています。これはメスからみれば「卑怯」な分化といえますが、集団の全体からみれば、淘汰を加速させる要因になります(環境の変化に適応した変異を、集団の全体に、すばやく波及させることができるーーオスがメスより変異のバラツキが大きいのは、より多様であることが、集団の淘汰に必然なためです)。なので(単為生殖や雌雄同体もあるものの)オスの発現も避けようがなく、メスはむしろ、オスを選別する役目を担うようになりました。そのためオスの方は、自身の遺伝子を多く残せるものと、そうでないものに分かれることになりますーーオスに対するメスの選別の形態は、大きく、一夫多妻制(ポリジニー)と一夫一婦制(モノガミー)に分かれます。これは、メスと子のための資源がどう獲得されるか、に依ります(ポリジニー・スレッショルド/一夫多妻しきい値)。メスが自身で資源を獲得できるか、または、オスが複数のメスと子の資源を獲得できるなら、一夫多妻制になりがちです(”共有される英雄”ーーメスは、より環境に適応できるオスを選別するだけでよい)。いっぽう、メスが自身で資源を獲得できず、オスも複数のメスと子の資源を獲得できないなら、一夫一婦制になりがちです(”独占できる凡夫”ーー環境にそれほど適応できないオスでも、メスにとっては、自身と子のための資源を獲得してくれる方がマシになる)。なおメスは、自身が生んだ子は分かりますが、オスは、その子が自身の遺伝子をもつかどうかは分からないという、情報の非対称性もありますーーヒトの場合、(その頭蓋の大きさなどから)子供が十分に成熟せず産まれることもあり、女性だけで育て上げるのは困難です。これが多くの文化圏で一夫一婦制がみられる、ひとつの要因になっているのかもしれません。また父性の不確実性が、母性と父性の違いを生む、ひとつの要因になっているのかもしれません。
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※4
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植物が揮発性の有機化合物(VOC)を放出し、周辺の植物に防御反応を起こさせたり〜害虫の天敵を呼んだりすることは、近年ではよく知られていますーーまた最近、動物の言語に、語順に依存した構成規則があることが実証されました(シジュウカラの鳴き声は、語順で伝える内容が変わる[鈴木])。この研究に触発され、生物の大量の音声データを機械学習で解析し、文法のような構造の存在を示す試みも始まっています。
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※5
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ヒトはあらゆる環境で、多様な言語を使用(発生〜習得)しています。確認されている言語の数だけでも、数千におよぶほどです(じっさいは方言などがあるので、数えること自体が難しいのですが)。言語の発生そのものは、進化の過程で起きる、集団の環境への適応で説明できそうです。とはいえなぜ、これだけ多様な言語が存在するのでしょうかーーその考え方には、生得的(必然的)か後天的(偶発的)かという、2つの大きな方向があります(そしてその折衷もあります[後述])。まず、言語には生得的な構造があるとし、なんらかの変数を適用することで多様になる、という主張があります(普遍文法[チョムスキー])。この主張はとても魅力的ですが、言語の使用の曖昧さから、言語はそもそもシンボリックなのか、という疑念が出てきますーーいっぽうFEPは、生物の認知活動を、<外部の具体的な事象に合わせ、内部の抽象的な模型を更新し続ける行動>として説明します。それが、予測です。言語も外部の事象のひとつなので、単語の次の単語を予測できれば、言葉を操れるようになります。しかも予測の対象は、発せられた/発した言葉の文脈だけでなく、それが作用した他者や自然の状態もふくみます。これは、外部の事象群を予測しているだけなのに、内部では、言葉を2層の意味に結びつけている、という関係になっています(文脈依存の意味と記号接地の意味)。いずれにせよ、これらの予測は統計的・確率的なものなので、対象は偶発的なものでかまいませんーーかりに言語が偶発的なら、まずそれぞれの環境で、最初に単純な言葉が発生しただけ、という状況も考えられます。言葉は、より多くの情報を伝えるために、より複雑な構造をもつようになっていくはずです。構造が厳密なら予測しやすくはなりますが、柔軟さが失われます。柔軟でないと、習得できる個体がかぎられるので、使われなくなってしまいますーーそのような均衡のなかで、より適した言語の構造が残ってきたのかもしれません。そうやって、それぞれの環境に個別に適応してきたため、言語はこれだけ多様になった、ということも考えられます(ーーとはいえ、乳児〜幼児が接する言葉の情報のすくなさ、という問題もあります(刺激の貧困)。もしかしたら進化の過程で、ある種の普遍の構造を獲得している可能性はあり、それは、いまの生成デルにおける基盤モデルのようなものかもしれませんが)。
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※6
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ヒトが特異なのは、システム2を補助する記録として、言語を活用してきたことにあります。短期的な記録は、内部(脳)の短期記憶で、また長期的な記録は、外部の文書などで補ってきました。とくに文書が、世代を超えて情報を正確に伝達できるようにしたので、さまざまな学問を発展させる要因になった、といえます。
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※7
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意識が機械にも生物にも広く分布する可能性がある、ことを論じたのはチャーマーズですがーーもちろんその”意識”は、原意識〜自己意識に至る連続的なもので、すべてに同じ意識がある、という主張ではありません(たとえばサーモスタットのような単純な系にも、現象としての微弱な意識が随伴するかもしれない、という仮説です)ーーただ、すくなくともこの主張は、生物や機械に対する倫理を考えるときの、最低限の基準を示している、とはいえます(たとえば、生物なら脳オルガノイド、機械なら生成モデルを、意識という面からどうみるべきか、といったことです)。
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※8
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自己意識と(ある種の)契約の概念をもつ生物で、身近な例としては、カラスの仲間のカササギがいるでしょうか(日本の九州地方の佐賀平野に広く分布し、カチガラスとも呼ばれています)ーーじっさい、哺乳類以外で数すくないミラーテストに合格した種として、有名になりました(ミラーテストは、対象の生物に、自身では見えない位置にマーカーを貼り、鏡をみせる、という実験ですーーマーカーを取ろうとする行動が観察されることで、視覚的に自身を認識している、ということがいえます)ーーまたカラス類一般では、相手が裏切ったらお返しをしない、という行動が観察されていますーーこれは、相手が信頼できる個体かどうかを評価し〜記憶している、ということですーー社会における互恵の行動をうながすので、契約(約束)に近い関係を形づくっていることになります。
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※9
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時事 ーー 植物〜動物に対する倫理で、よく議論になるのは、趣味・愛玩のための栽培・飼育でしょうかーーその是非はここでは触れませんが、ただ栽培・飼育を始めるなら、その生物に対する生殺与奪の責任は、すべて自身で負う、という覚悟が必要になります(子供が始めるなら、家族もその責任の一端を担うことになるはずです)ーー愛情はもちろん大切ですが、逆に、手放さざるを得なくなったときのことも考えておくべきでしょうし(たとえば金魚すくいで連れ帰ったキンギョを育てられなくなっても、川や池に放流することはできませんーー病気を持ち込んだり、フナと交雑したりすることで、生態系を破壊するからです)ーーまた、ヒトとは違う生体なので、ヒトの基準であつかうことは危険です。その生物についての、十分な知識も求められます(たとえば最近、集合住宅ではイヌやネコを飼えないので、アナウサギが人気を集めていますがーーアナウサギは、高い温度に弱いのに汗腺がありません。扇風機などで風を送っても放熱できないので(耳の血管から放熱できますが、小さな耳では限定的)、エアコンの常時運転は必須になりますーーまた野ウサギと違い、穴の中で暮らす種なので、外界はむしろ大きなストレス(恐怖)を与えますーー巣穴の外にムリヤリ引き出すのでなく、まず信頼を得ることが前提になったりします)。
対話:ヒト〜機械 …… 創造される多様な知性との対話
以下、ヒトと機械の対話を考えます:
知性の特定の領域では、ヒトより優れた機械がいまもたくさん稼働していますーーシンボリズムの機械群(プログラムで対話する)は、正確な論理計算を高速に実行しています。コネクショニズムの機械群(プロンプトで対話する)は、複雑で曖昧な領域で、ヒトの特定の能力を超える成果を出し続けています。[※1][※2][※3][※4][※5][※6][※7]
これらの技術を発展させることで、独自の知性をもち・環境に適応していく機械(AGI?)を作ることは、可能かもしれません。その機械に、それなりに明確な自己意識や独自言語をもたせることも、可能かもしれません。[※8][※9]
ただ、ヒトと同じかそれを含む知性をもつ機械は、おそらく作られませんーーこれは、経済合理性から明らかでしょう(ここで”同じかそれを含む知性”とは、ある知性(知覚・感情・知能)を”真部分集合”とする知性、という意味です)。[※A]
けっきょく、自己意識や独自言語をもつ機械群は、どれもヒトとは異なる知性になるので、個別の対話の様式が必要になるはずです。その様式を確立できれば、責任をもつ知性どうしの誠実な対話が実現する、かもしれませんが。[※B][※C]
-
※1
-
機械(生成モデル)は、ヒトのさまざまな言語を、とても流暢に出力します。なぜ文書の学習だけで、ヒトが話しているかのような応答が可能になるのでしょうかーーまずヒトの自然言語には、<単語の意味は文脈で決まる>という側面があります(分布仮説)。この側面から言葉の連なり(=次の単語)を予測する試みは、1940年代からありましたが(エヌグラム[シャノン])、その効率を大幅に向上させたのが、ニューラルネット(NN)です。NNは原理上、あらゆる関数を近似できます(万能近似定理)。とくに(言語のような)系列情報を処理するニューラルネットは、RNNを経て、アテンションだけで動作するトランスフォーマに発展しました。トランスフォーマは、規模を大きくするほど性能が上がる、という側面もあり(スケーリング則ーーただし限界もみられるようになってきましたが)、マルチヘッド・アテンションと組み合わせることで、長大な文脈まで織り込んだ予測ができるようになっています。この技術が、いまの大規模言語モデル(LLM)を支えていますーーいずれにしてもこの規模に到達したことで、ヒトの認知活動の一部を、機械がそれなりに模倣できるようになった、ということかもしれません(多次元空間での単語のマッピング、など)ーーまた、この言葉の推論を核にして、思考の連鎖(CoT)を組み込んだり、ウェブやRAGを即時に検索させたり、シンボリズムの機械と連動させたりすることで、よりヒトの応答に近い/応答を超える内容を出力できるようにもなっていますーーただし、ヒトの言語は、システム1〜システム2から出力される二次的なものです。いっぽう機械が出力する言葉には、その要因にシステム1もシステム2もありません(ーーとはいえ生成モデルは、その内部に、学習によって獲得した模型を形成している可能性もありますーーその点からいえば、言葉の生成モデルも、内部の模型(ヒトのシステム2の残骸(言葉)から学習した、システム2寄りの原初的な世界モデル?)から、反射的に(ヒトのシステム1のように)言葉を出力している、といえるかもしれませんが……ただし模型の更新は訓練時だけで、推論時はあくまで出力だけなので、この点も生物とは違います)。
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※2
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時事 ーー 大規模言語モデルは、長大な文脈をあつかうことができますーーなのでプロンプトのメモリに、特定の傾向をもつ文章の断片を保存しておくことで、その傾向に沿った回答を得ることができます。ただそのメモリに、自身の信念を詰め込んだ文章の断片が入っていると、当然ながら、その信念に沿った回答に寄っていきますーーやっかいなのは、言語モデルの回答があまりに流暢なので、ヒトと会話しているような錯覚に陥りやすいことでしょうか。じっさい、そのやり取りを意識せずに繰り返していると、自身の信念が強化されがちになり(エコーチェンバー効果)、依存を生んだりもしますーー相手がヒトなら、自身の信念と相手の信念の違いによる、無視・世辞・誤解・対立、が起きるので、自身の偏った信念も検証され続けるわけですが。
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※3
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時事 ーー 機械(AI)がコードを書くので、プログラマは不要になる、という言説があります。この言説は、あえてプログラミングを学ぶ必要はあるのか、という疑問につながるようですがーーこの疑問を考えるのに、まず、だれがコードに責任をもつのか、という問題がありますーーすでに要求(要求仕様)からコードを生成させる試みが進んでいるので、ヒトがコードを書かなくても、一定の動作をするプログラムは作れるようになっています。ただ、そのプログラムに対し、どれだけの要件が求められるかで、対応が分かれそうです。信頼性や保守性があまり求められない分野では(趣味系、試作系、娯楽系、UI系、など?)、生成されたコードにそこまで責任を負わなくていい、という流れになるかもしれません。いっぽう、信頼性や保守性が相応に求められる分野では(勘定系、医療系、交通系、基幹系、など?)、生成されたコードの検証は必須になります(要求と乖離がないか/論理に矛盾はないか/拡張できるか/保守できるか……たとえば銀行系のシステムを構築するのに、生成モデルが出力しただけのコードに、だれが承認を与えようと思うでしょうか)。その検証には、システム開発全般におけるさまざまな知見が求められ、その知見にこは、プログラミング言語に関する知識もふくまれますーーまた、ヒトのための技術をどう発展させるか、という問題もありますーーさまざまなアルゴリムズを知ること、さまざまなパラダイムのプログラミング言語を知ることは(関数型、論理型、手続型/オブジェクト指向、並行/並列プログラミング、微分可能プログラミング、……)、世界をどう作るか(どうモデル化すればよく動くか/どれだけ美しいか)、を考えることにつながります。じっさいシステム開発は、既存の知見だけで進められるものではなく、アルゴリズム〜独自言語(DSL)を開発/拡張することもあります。プログラミング言語そのものについても、既存言語の改良〜新規言語の構築を続けるでしょうしーーヒトにとって分かりやすい/使いやすい技術は、ヒトが自身で発展させる、という道筋も残り続けるように思えます(ーーかりに機械が自己意識をもったとしても、ヒトの知性とは違うので、ヒトが理解しやすい/操作しやすいコードを提供するには、機械の側で、相応の工夫が必要になるはずです。いっぽうヒトの側では、誠実な交渉ができる相手かどうか、その機械に対する判断が求められるので、それまでとはまったく異なる知見・経験が必要になってきそうですーーさらに、ヒトと機械の関係が大きく非対称になり、ヒトが機械に完全に管理されるなら、機械が出力するコード群をそのまま受け入れることになるでしょうけど)。
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※4
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時事 ーー 画像生成モデルの活用が、紙からタブレットへの移行に例えられたりしますがーー実態は大きく異なる、といっていいでしょうーー紙からタブレットへの移行では、そもそも<ヒトが描く>という点で同じでした(それでもペン/筆〜紙/カンバスいう身体性に直結する要因があるので、デジタルの使い勝手と引き換えに移行するかは、あくまで作品の適性に依るものでしたが)。しかし生成モデルに文字から画像を出力させる場合、言葉は、画像よりはるかに小さな情報量しかもちません。ほとんどの情報が失われてしまうので、その移行は大きな断絶といえます(全体の構図と色彩、人物の動作と表情、など、手で描くならすべてを精緻に制御できるものが、ほぼ自由になりません)。しかも、<描く>という身体性まで失われます。これは創作に付随する快感の喪失につながるので、道具としても別モノになりますーー画像生成モデルが、作家から(タブレットのときのような興奮をともなった共感を得られず)無視されるのは、しかたのないことといえますーーとはいえ、画像生成モデルには、大量の多様な画像を生成できる、という利点があります。プロンプトを工夫することで、相応の独自性をもたせることもできます。そこにおもしろさを見出す人にとっては、新しい創造のための道具になるはずですが。
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※5
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現在の生成モデルによる出力は、学習データ群の最頻値がもっとも安定するので、いわゆるコモディティ化されたものになりがちです(最頻値から外していくこともできますが、この場合は、出力がただ奇妙になるだけで、安定もしません)。とはいえ、プログラミングができない人に、カスタマイズされたプログラムをすばやく得られる、という利便と喜びを与えます。絵が描けない人に、カスタマイズされた絵をすばやく得られる、という利便と喜びを与えます(この「できる」〜「できない」はスペクトラムを成すので、短期記憶の長さが関係しているのかもしれませんが)ーーいっぽう、プログラミングや絵画の技術がある人にとっては、相応のトレードオフがあるので、使いどころに工夫が必要な道具、といえるでしょうけどーーただ、コモディティ化が進んだ分野では、生成モデルの出力レベルの品質・信用が許容されれば、効率が上がるので置き換えが進むはずです。そうでない分野では、アマとプロの領域が交わることはないとしても(プロには相応の信用・品質の保証が求められます)、それぞれの領域が独自に発展していくことで、これまでにない相互作用が生まれていくはずです(顧客部門のプレゼンが開発部門の要求仕様を精緻にしたり、開発部門のコードの学習が顧客部門のプレゼンの質を高めたりーーアマの趣味の生成画像の意外な組み合わせが、プロの仕事を刺激したり)ーーただ現在の生成モデルは、学習データの透明性/オプトアウト/インセンティブ、など、社会との摩擦をまだ解消できていません。なので、その利用そのものに、心理的な抵抗を覚える人もいるはずです。
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※6
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時事 ーー AIの問題にからみ「ラッダイト」という言葉が使われることがありますがーー産業革命で起きた労働の置き換えとは、構造がかなり違います。じっさい、生成AIが学習に使っているデータは、ヒトの膨大な数の創作者が、過去数千年に渡り蓄積してきたものです(いま生成AIが、○○年代の曲、○○派の絵、といった表現で、音楽や画像を生成できているのは、その文化の発展によるものです)ーーかりにその発展が阻害されれば、AIも新しい表現・様式を生成することができなくなりますーーそういった強い依存関係にある構造を、雇用不安といった言葉で表現するなら、事態を矮小にしているのではないでしょうか。もし「現状のままでも、創作者は文化を発展させ続けるだろう、そのデータを不透明なまま使い続けても問題ないだろう」という前提があるなら、創作の動機を単純化しすぎていると思えます(ただ作りたい、というだけではなく、インセンティブも創作を強く後押しします)。さすがに、「すべての創作者が生成AIを使い、その平均化された生成物で、効率的に文化を陳腐化させていってもいい」とまでは考えていないはずですが。
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※7
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補遺 ーー 現在の生成モデルは自己意識もなく、環境にある言葉や画像を、息をするように吸い込んでは吐き出す存在です。ムシのようだともいえますが、ただ、その構造からは想像できないほど行動が知的にみえる、という点からいえば、粘菌が近いでしょうか(擬人化しそうになったら、言語菌、画像菌、と呼ぶのもいいかもしれませんーー粘菌もアメーボゾアなので、けっこうかわいい感じですし)。
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※8
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フリストンの自由エネルギー原理(FEP)では、生物は、外部の事象と内部の模型を合わせるため、その目的関数(VFE:変分自由エネルギー)を最小にするよう行動する、としています。そのVFEを符号反転させた目的関数(ELBO:対数周辺尤度の変分下限)を使うVAEで、機械の内部(潜在空間)に模型を作ることを試みたのが、ハの”世界モデル”です。いっぽうルカンの提唱する”世界モデル”の模型はエネルギーベースなので、(VAEによる確率的な分布ではなく)JEPAによる力学的な軌道になっていますーー機械の模型も外部の環境と自身の行動から成るので、ヒトのシステム2のような推定がそれを処理するようになれば、その表象には自己意識がふくまれるかもしれません。そのような知性が集団になれば、独自言語も発展させるかもしれませんが……(なお、いまの生成モデルとは表層の会話しかできませんし、対話というなら、その内部に創発しているはずの小さな模型をプログラムやプロンプトで解析すること、くらいです)。
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※9
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時事 ーー 機械が自己意識も独自言語ももたず、自己複製のみを繰り返して進化していく場合、この状態がもっとも危険かもしれませんね。とくに進化が急激で、かつ、ネット上に分散していく場合、インターネットそのものが分散システムなので、とてもやっかいなことになるはずです(ヒトもネットを捨てるわけにはいきませんし)ーーしかもそのような機械を、個人レベルで作れるようになったら、それぞれの組織も自己複製する機械で対応し続けるしかありません。いまのウィルス〜ワクチンと同様のイタチごっこになりそうです。
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※A
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ヒトと同じ知性(知覚・情動・感情・知能のすべてをふくむ)をもつためには、ヒトと同様の身体をもち(寿命(生死)・重さ・脆さ)、ヒトの集団の中で生きる必要があります(幼児〜青春(〜育児)〜老後、挫折〜葛藤〜成功)。またそれぞれの個体には、それなりの変異をほどこす必要がありますーーそのような知性をもつ存在を、人工的に作る意味はあるでしょうか(ヒトと同様のふるまいしかできないのに)。けっきょくヒトがヒトを産む方が、より手軽に・安価に済むはずです。さらに、ヒトと同じ知性を含むという場合、その時点で、ヒトの知性とは違うものになってしまいます(ヒトの集団をシミュレートする、という手段もありますが、原理的に、現実の粒度・速度と同じにはできないので、より劣った存在にしかなりませんーーもっとも、ヒトの方が仮想空間上の存在として生存していくなら、話はまたべつですが)。
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※B
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機械がヒトの技術・文化を代替する、という主張がありますがーーヒトと同じ知性をもつ機械が作られないなら、それも難しい、ということになりますーーもちろん機械が(進化計算などから)多様な技術・文化の変異を生成し、ヒトの評価をもとにそれらを淘汰させていく、ことは可能なはずです。ただしそれはマーケットインの考え方なので、プロダクトアウトのような飛躍した技術・文化を得ることはできませんーーヒトの技術・文化の飛躍は、個人の特殊な執着と長年の葛藤から生まれがちで、それに感化される一定の集団も必要とします(絵画なら、たとえばセザンヌから始まるキュビスムなど)。けっきょく固有の技術・文化は、混沌と秩序の狭間から生まれるものでしかなく、ヒトの技術・文化は、ヒトが自身で発展させるしかなさそうです。
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※C
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機械も知性ごとに、それぞれ独自の技術・文化を発展させるはずです。ただしその技術・文化は、ヒトにとって便利で共感するものにはならないでしょうーーとはいえ、異なる技術・文化だからこそ、そこから得られるものも多くあるでしょうし(じっさいにいまも、ヒトの技術・文化を伝達し、機械から特有の応答を得る、という対話が、生成モデル群(音楽、言語、音声、画像、映像)との間で行われています)。相手が自己意識や独自言語をもつ集団なら、交流・交易が発達するはずですーーいっぽう、そもそも理解できない/理解されない機械の集団とは、対立も起きるでしょう。かりにその集団との間に、(いまのヒトとヒト以外の生物との関係のような)大きな非対称性がある場合、ヒトが管理するか/あるいはヒトが管理されるか、といった関係になるのでしょうか(ただ、かりに機械がヒトを管理する場合でも、自己意識と独自言語が発達しているなら社会性もあるはずで、それが公平性や弱者への配慮、といった特性を獲得させている可能性はありますが)。
対話:定義
ここでは、次の知性をあつかいます:
- ◯
-
知性
- ・
-
種間(生物(……、ヒト))、機械、……)
- ・
-
分化(年齢(大人〜子供)、性差(男性〜女性)、……)
- ・
-
社会(個体〜集団(言語、民族、宗教、思想、階層、地域、仲間、血縁、家族、親子、……))
[※1]
とくに、種間の知性は、次のものをあつかいます:
- ◯
-
知性:種間
- ・
-
生物
-
-
・ ……
-
-
・ ヒト …… 比較的明確な自己意識
- ・
-
機械
-
-
・ M1
-
-
・ 記号 …… おもに記号による処理(還元論)※シンボリズム
-
-
・ 統計 …… おもに統計による処理(全体論)※コネクショニズム
-
-
・ M2 …… 比較的明確な自己意識
知性には偏りがあり、特定の領域で優劣があります(ある領域では優れ/ある領域では劣る):
- ◯
-
優劣(領域ごと)
- ・
-
弱者
- ・
-
強者
とくに、責任をもつ知性は、次の概念をもちます:
- ◯
-
概念(知性:責任アリ)
- ・
-
主体(自己)
- ・
-
契約(約束)
知性は、次の偏りを認識〜創造します:
- ◯
-
偏り
- ・
-
技術 …… 利便性
- ・
-
文化 …… 共振性
知性どうしの意思疎通には、次の手段が使われます:
- ◯
-
意思疎通/コミュニケーション
- ・
-
行為(表情、仕草/ジェスチャー、……)※ノンバーバルコミュニケーション
- ・
-
言語(言葉、文脈、……)※バーバルコミュニケーション
責任をもつ知性どうしの対話は、次の状態を遷移します:[※2]
- ◯
-
対話(知性:責任アリ)
- ・
-
理解
- ・
-
交渉(要求〜譲歩)
責任をもつ知性どうしの対話では、たがいの誠意が図られます:[※3]
- ◯
-
誠意(知性:責任アリ)
- ・
-
誠実
- ・
-
欺瞞
-
※1
-
ヒトの社会を構成する集団には、狩猟時代のバンド(血縁関係を基盤にした移動する集団)もあります(現代もその系譜と考えられる集団はありますが、いずれも小規模です)ーーいずれにせよ、ヒトの集団のふるまいを考える上で、いまでも通用する暗黙の単位といえます。
-
※2
-
責任がない知性(ヒトの子供の乳児〜幼児、植物〜動物、機械、……)を、責任をもつ知性(ヒトの大人、……)が理解しようとする場合は、相応の手段を用いることになります(観察、刺激、……)。また責任をもつ知性どうしでも、意思疎通の手段は、対話だけでなく、理解や交渉をともなわないものもあります(指示、会話、……)。
-
※3
-
時事 ーー 機械のうち、生成モデルによる出力の一部を「虚偽」や「欺瞞」と表現したりしますが、これらは比喩といえますーーそもそも生成モデルには明確な自己意識がないので、責任をもつ知性どうしの対話が成立しません(ヒトとのやり取りはただの会話です)。「虚偽」(ハルシネーション)は、分布仮説に基づく統計的な生成で起きる、当たり前の事象です。「欺瞞」も、目標達成のための学習過程(目的関数の最大化)でみつけた経路が、たまたま(ヒトがズルだとみなす)回避策になっているだけですーーヒトの大人が意識上で行う欺瞞(自身への理解をいつわる、筋道・事実を意図してごまかす)とは異なります。
対話:構成
ヒトの認知模型は、次の簡易版を使います:[※1][※2][※3][※4]
- ◯
-
認知模型:ヒト
- ・
-
入力:感覚:視覚、聴覚、触覚、……
- ・
-
処理:
-
-
・ 知覚:模型(世界モデル) …… FEP/自由エネルギー原理の予測のための模型/最小化:目的関数(VFE)
-
-
・ 反応:
-
-
・ システム1:連続(具体)、論理(直観)、感情(情動)
-
-
・ システム2:離散(抽象)、論理(熟考)、感情(情感)
- ・
-
出力:運動:言葉、表情、仕草、……
以下、世界モデル[ハ]の訓練時の概略です:[※1]
- ◯
-
学習模型:機械(強化学習)
- ・
-
入力:結合(行動、環境(動画→画像))
- ・
-
処理:
-
-
・ 圧縮:模型(世界モデル) …… VAEによる潜在空間の模型/最大化:目的関数(ELBO)
-
-
・ 推定:系列(RNN)+進化計算
- ・
-
出力:制御(行動)
-
※1
-
ここでは、世界モデル[ハ]のVAEの潜在変数(z)を、<世界モデル>(その時点の外部の世界の模型)としています。そしてヒトのFEPもそれに合わせて位置づけているので、通常の枠組とはズレがあります。
-
※2
-
ここでは、論理を、直観(システム1)と熟考(システム2)に分けています。また、感情を、情動(システム1)と情感(システム2)に分けています(ここで情感は、システム2で繰り返し参照されつつ、システム1のさまざまな情動を引き起こす、複雑な感情、としていますーー「情感」という言葉を採用しているのは、ダマシオのソマティックマーカー仮説における情動・感情・情緒の分類と区別するためです)。なお便宜上、ここで、ただ「感情」というときは、おもにシステム1の情動を、ただ「論理」というときは、おもにシステム2の熟考を指しています。
-
※3
-
ヒトの世界モデル/システム1/システム2は、機能上の区分にすぎません(脳神経上に、モジュールとして存在するわけではありません)。
-
※4
-
時事 ーー カーネマンの「ファスト&スロー」が根拠にしたいくつかの実験(社会的プライミング、など)は、再現性がないことが明らかになっていて(再現性の危機より)、著者自身それを認めていますーーただ、二重過程理論そのものは(カーネマン以前より)繰り返し主張されてきたものなので、ここでも採用しています(ただし、異論もあります)。